⑧歩み寄り
――まったく、油断も隙もない。
あたしはエセルさんたちが出て行った後、素早く服を着ると椅子を扉の前に立てて寝た。これなら開いたらすぐに気づく。でも、あんまりぐっすりってわけには行かなかった。安眠できる場所がほしいけど、陸地に着きさえすればきっと大丈夫……。
ようやくうとうとしかかった明け方、あたしはマルロに起こされた。マルロは扉の前の椅子に驚いて怒ってる。
「うわ、なんだこれ? おい、いつまで寝てる! 起きろ!」
はいはい。
あたしは怪我人を寝かせる寝台の上で目を擦った。あたしも朝寝坊な方ではないけど、今ってかなり朝早いよね。
「おはよ」
髪を手ぐしで直してると、マルロは心底嫌そうにあたしに言った。
「朝食の支度だ。急げ」
「りょーかい」
あたしは軽く顔を洗って部屋を出た。
朝食はベーコンと芋のスープ。玉ネギと香草も入ってる。それに日持ちがするように硬く焼いたパンを浸して食べるみたい。半分に割った柑橘がついてるのは栄養的な配慮だね。
「じゃあ、パルウゥスたちのところへ頼むよ」
ファーガスさんに言われ、あたしとマルロはうなずいた。
――でもねぇ、マルロはもしかするとパルウゥスが苦手なのかな?
言葉が通じないって不便だし、困惑することも多いんだと思うけどね。
チリリンと食事を告げるベルを鳴らすと、
「よそったら戻って来いよ」
またあたしを置いて去って行った。いいけど、別に。
「はいどうぞ」
スープをよそってパンと一緒に手渡す。昨日も一番最初に来たパルウゥスだ。みんな子供みたいに見えるから年齢はよくわからない。でも、もしかするとこの人がリーダーなのかな?
「Ευχαριστώ」(ありがとう)
そう言って笑った。
あ、わかった! 今、ありがとうって言ったんだ。きっとそうだ。
パルウゥスの言葉で、『Ευχαριστώ』はありがとう、だ。よし、ひとつ覚えた。
「どういたしまして」
あたしも笑顔で返した。すると、パルウゥスはちょっと驚いたようにつぶらな目をパチパチと瞬かせた。かと思うと、続けて言った。
「Ποιο είναι το όνομα?」(名前は?)
う……さすがにそれはわからない。ごめん。
あたしが困った顔をしたせいか、パルウゥスは手に持っていたスープを床に置いて自分を指差した。
「Έχω Βέγας」(私はヴェガス)
自分を指さした。ええと、確か発音は――。
「Έχω?」(私は?)
舌噛みそうだけど、言えたと思う。すると、パルウゥスはにっこり笑ってもう一度自分を指差して言った。
「Βέγας」(ヴェガス)
ああ、それがこのパルウゥスの名前なんだ。
「ヴェガス?」
こくり、とパルウゥスがうなずいて、照れたように笑った。あたしはそれが嬉しくて、あたしも自分を指差して言った。
「ミリザ」
「Μίριο?」(ミリザ?)
「うん、そう」
あたしもうなずくと、ヴェガスは納得してくれた。言葉が通じない者同士だけど、お互いに名前を知り合った。これって大きな前進なんじゃないかな?
ヴェガスは急いで朝食を食べると、漕ぎ手座に戻った。あたしはみんなに配って、それから食器を回収して戻る。そしたら、やっぱり遅いって怒られた。
「全員に配ったら食べ終えるのを待たずに一度戻っておいで。その間にミリザも食事を済ませたらいい。食器の回収はそれからでいいんだ」
ファーガスさんがそう言ってくれた。でも、あたしは少し考えるともっといい方法を思いついた。
「ファーガスさん、あたしの分も持って行って向こうで食べますね。そしたら何度も往復する手間が省けますよ」
「ん? まあ、そうしたいならそれでもいいが」
そこでマルロがぽそりと言った。
「パルウゥスたちのわけのわからない話声を聞きながら? 物好きだな」
物好きで結構です。エセルさんとかと食べるよりいいもん。
ファーガスさんはそれくらい好きにすればいいと思ってるみたいだった。
「じゃあ、食器の片づけはミリザ、洗濯はマルロ。二人とも頼んだよ」
「はい」
マルロもファーガスさんには素直だ。って、あたし以外には素直なのかもね。
洗濯かぁ。あたしは思い切ってマルロに言った。
「ね、服貸してよ」
「は?」
「あたし、服はこれ一着しかないもん。洗濯したいから替えの服貸して? マルロのが一番サイズ合うし」
嫌な顔するだろうなと思ったけど、案の定すごく嫌な顔をした。けれど、それをファーガスさんが取り成してくれた。
「ミリザがおかしな格好で船内をうろついたら、ディオンが怒るだろう。貸してあげなさい」
どうしても貸してくれないって言われたら、シーツでも体に巻いて乾くの待とうかとか思ったのがなんでわかったんだろ? 昼間ならエセルさんも忙しくて近寄って来ないし、すぐ乾くからいいかなって。
マルロは渋々、ほんとに渋々貸してくれた。大きなフリルのついたドレスシャツに朱色のパンツ。どうもありがとう。
食器を洗って、その隙に厨房の隅で着替えて服も洗った。マルロは濡れてもいいように風呂場で洗濯してる。やっぱりお風呂はあったんだ――今日は入りたいな。厨房の窓から服を干した。下着も干すけど、だって仕方ないじゃない。
この強い日差しと風があれば一時間で乾くよね。服が乾くまでにあたしは食器を拭いたり、厨房を掃除したりした。そうして乾いた服を再び着込むと、マルロが戻って来た。あたしはにっこりと笑ってマルロにお礼を言った。
「ありがと、マルロ。借りた服はまた洗濯して返すね」
すると、マルロは嫌悪感むき出しで吐き捨てた。
「お前が着た服なんてもう要らないよ」
「ほんと? じゃあ、くれるの? ありがと!」
わーい、とあたしが両手を上げてはしゃぐと、マルロはすっごく悔しそうに地団太を踏んでた。
「どんな神経してるんだよ、お前は!!」
甘いなぁ。あたしみたいな貧乏人は小さいことにこだわっちゃいられないんだよ?
パルウゥスたちの言葉はキリシャ語がベースですが、大嘘な場合もありますので信じてはいけません(おい)
それっぽく感じて頂ければそれで……。