⑯昔話
あたしはテルシェさんの家を出た後、そのままエセルに海の見える岩場まで連れて行かれた。ヴァイス・メーヴェ号の船影が見える場所だ。
そこまで来ると、いい加減に放せとあたしは肩に乗ったエセルの手を払い落とした。エセルはそれ以上しつこくはしなかったけど。
そこでエセルはひとつ大きく伸びをするとあたしの方を振り返って笑った。その笑顔はどこか怒気をはらんでいるような……。
「君って無鉄砲だよね。知ってはいたけど、ここまで来ると腹立たしいな」
腹立たしいとか言われてもね。
「エセルとテルシェさんの間に何があるんだか知らないけど、そんなのあたしには関わりないじゃない」
思い切って言うと、エセルは深々と嘆息した。
「彼女はね、僕が苦しむ姿を見たいんだ」
「え?」
戸惑うあたしにエセルはどこか寂しげな笑顔で続けた。
「正確には『僕が』じゃないけどね。彼女の大嫌いな人間の息子の僕が苦しめばいいと思ってる」
大嫌いな人間の息子?
ただ目を見開いているあたしに、エセルはゆっくりと語った。
「うちの父親が神職だって言っただろ? それで、この島へ無事辿り着くために頼まれて船に乗ることもあったんだ」
幽霊船とかが出没するんだもん。祓える人間が必要なのはわかるけど、それが何?
「そうして、この孤島で彼女の母親と出会った。で、ベタな話なんだけど、恋に落ちたわけ。彼女の母親だし、そりゃ美人だったんだろ。でも、親父はパハバロスでの暮らしを捨てる気はなくて、結局長くは続かなかった。母親を捨てた親父を、彼女は今でも恨んでるよ」
エセルは父親が嫌いで、今ではまるで寄りつかないってディオンが言ってた。それって、テルシェさんたち母子のことがあるからなのかな?
でも、エセルだって節操ないじゃない。お父さんのこと言える?
そんな思いが顔に出ていたのか、エセルは更ににこりと笑った。……どこか無理してる。
そうして、自分を落ち着けるように深く息を吸うと朗々と語り出した。
「――あるところにとても真面目な少年がいました。少年は物心ついた時から島の人々に慕われる父のような神父になろうと思っていました。毎日祈りを欠かさず、聖書を諳んじる毎日でした。その少年がようやく十三歳になった頃、出航する船に乗ることになりました。悪霊を祓う術はすでに身につけていたので、それを買われてのことでした。そうして少年の乗る船は悪霊を退け、とある孤島へ辿り着いたのです」
エセルの昔語りに、あたしは相槌を入れることもなく聞き入った。エセルはすでにあたしに顔を向けるでもなく、曇った空を見上げていた。
「その島で、少年はとても美しい女性に出会いました。真面目に神に祈るばかりだった少年にとって、魅惑的な彼女の存在は次第に大きくなるばかりで、半年に一度ほどしか会えなくともすぐに夢中になりました。自分が想った分だけ、彼女も想いを返してくれていると信じていた少年でしたが、そうではありませんでした。彼女はすぐに少年が自分の母を捨てた男の息子だと気づいたと言うのです。気づいた上で、気がある素振りを見せては少年の気を引き、すっかり少年が自分の虜になったと思えた時に真実を告げたのです」
そこまで語ると、エセルはゆっくりとあたしを見つめて笑った。不敵に笑ったつもりなのか、いつもよりもどこか壊れたような笑顔だった。
「あなたの父親は私の母と私を捨てた。私たちの苦しみをあなたも背負いなさい、と」
「それって……」
つまり、テルシェさんはエセルのお姉さんってこと?
あたしはぞくりと背筋が寒くなった。エセルはクスリと笑う。
「よく見ると多少は似てるだろ?」
結びつけて考えなかったけど、そう言われてみると似てるのかも知れない。整った顔立ちもまっすぐな髪も……。
「純粋だった少年は、信じていたものふたつを失って、そこから何かが壊れてしまいました。おしまい」
淡々と語る声が悲しい。
あたしはエセルを傷つけないようにそっと訊ねる。
「彼女のこと、お父さんとは話した?」
その瞬間、エセルの目がどこか虚ろに見えた。
「話したよ。そしたら、なんて言ったと思う? あの孤島の魔女たちは代々、来訪者と関係を持って子を孕んで生きて来た。魔女たちは孤島を離れるつもりはなく、そこは納得ずくの関係だったってさ。彼女の母親ももういないし、親父の言い分が本当なのかはもうわからない。でも、事実はどうあれ実際テルシェは恨んでるし僕はいい迷惑だ」
確かにね。それはテルシェさんも同じ。
あたしも親に翻弄されて来た。こんなのは理不尽だって思いと、そういう星のもとに生まれたんだって諦観がわからなくはない。
「……このこと、ディオンたちは知ってるの?」
エセルはかぶりを振る。
「いや、詳しくは話してない。多分、フラれた初恋の人くらいにしか思ってないだろ。ミリザにこれを話したのは、テルシェはそういう人間だから注意しろって言いたかったからだ。理由も聞かずに『近寄るな』じゃ納得しないと思ってね」
確かにね。
他人のあたしにこれを話すのは、エセルみたいなタイプにはすごく勇気の要ることだと思う。それをしてくれたのは、真剣にあたしを心配してくれてるから。軽くって適当だって思ってたエセルにも実は繊細で誠実な部分もあるんだよね。
あたしは深刻に返すのもよくないように思えたから、少し笑って言った。
「その少年はお父さんだけじゃなくて、すっかり女の人が嫌いになっちゃったわけね」
もやもやとしていたことを言葉にすると、あたしの中でストンと落ち着いた。女遊びは神職を目指した過去との決別の意味もあるのかな。それから、エセルは女性をまったく信用してない。女好きに見えて誠意がないのはそのせいだ。
するとエセルはニヤリと笑った。
「そんなことないよ。だーい好きだよ。特にミリザみたいな娘は」
うん、初対面の時から気に入ったって言ってはしつこかったね。
あの時は女たらしな人だと思ってただけなんだけど、今になってはっきりとわかる。
だからあたしは言ってやった。
「エセルってさ」
「ん?」
「ひと目見てあたしのこと気に入ったなんて大嘘。ほんとは逆でしょ。最初から気に入らなかったんでしょ? だからあんな悪戯ばっかり仕掛けて来た」
エセルは意表を突かれたのか、とっさに返答をしなかった。かと思えば、目もとを手で覆うと、急に声を立てて笑い出した。不気味な……。
そうして、次にあたしを見た時の瞳は何故か穏やかだった。
「バレた? すごいな、ミリザは」
コイツ……。
あたしは腰に手を当てて嘆息した。そんなあたしにエセルは言う。
「その目がね、駄目だった。逆境にも屈しないって語ってる強い目が。見た瞬間に苛立ったよ」
そんなこと思ってたのかあの状況で。
「自覚してないと思うけど、君はディオンと同種の人間だよ。人や運命を惹きつける。ディオンもそう感じてるんじゃないか? だから、王都で宝石探しが難航した時、ミリザの提案を撥ね退けられなかった。君がなんらかの波を起こしてくれるんじゃないかって思えてしまったから」
ディオンと? まさか。
それはちょっと買い被りだと思うけど。
「ディオンはもちろん強運だけど、あの時はディオンが望む賽の目をミリザが呼び寄せたように僕には見えたな」
あたしはディオンが負けるわけないって信じただけ。何も特別なことはしてないんだけどな。
エセルはほんの少し、ほんの少しだけ申し訳なさそうな目をした。
「だから、屈服させたくなってね。ちょっと大人気なくてごめんね?」
「今更謝るか……」
あたしが呆れても、エセルは笑ってた。
「でもさ、嫌だったのは最初だけ。接すれば接するほど、そういう気持ちは薄れて親しみを感じてたよ。そう言ったら信じる?」
「信じるよ」
あっさりとあたしは即答した。
そのことが、エセルなりに嬉しかったのかも知れない。ほっとしたように見えたから。
「うん、ありがとう。だからね、ミリザをテルシェに会わせたくなかったんだ。会わせたら、きっとテルシェは気づくだろうなと思って」
「え?」
「僕にとってミリザが特別だってこと」
気を許した相手だから、嫌がらせの道具にされるって?
「テルシェさんも苦しんでるんじゃないかな? あたしを道具みたいには扱わなかったよ。昔はどうだったかわからないけど、少なくとも今はね」
「どうだか」
白けたように言われた。
まあね、そんな簡単に溶けてなくなるような確執じゃないんだよね。焦ったって仕方ない。
「まあいいじゃない。エセルの不幸を願う人がいたとしても、エセルが勝手に幸せになればそれで。うだうだ考えたって仕方ないもん」
なんでもないことのように笑い飛ばす。今、信頼を向けられたあたしにできるのはそれくらいかな。
――と思ったら、エセルはすごく意地悪な笑顔を作った。
「ミリザ、わざとじゃないよね?」
「何が?」
「特別って意味わかってる?」
なんか言われたような気もするけど、そこはあんまり意識してなかった。
そんなあたしに苛立ったらしく、エセルはあたしの腰を素早く抱き寄せて、あたしが体勢を崩した一瞬の隙に軽く唇にキスをした。
――――コイツ!!
バシン、と思い切り横っ面を殴ってこの件は不問にした。




