⑦エセルバート
木皿を回収して空の寸胴鍋に放り込み、あたしは厨房に戻った。その頃には厨房は荒れ果てていた。船員たちが食事を終えた後みたい。
こぼれたシチューと皿の散乱具合がまさに戦場……。
「遅い!」
またしてもマルロに怒鳴られた。
「はい、ごめんなさい」
素直に謝ると、ファーガスさんがニコニコと庇ってくれた。
「お前が放って来るから、ミリザは戸惑ったんだろう。お前にも責任はある」
「それは……」
マルロが口ごもった。やっぱりファーガスさんだけがあたしの味方なんだって瞳を輝かせたあたしは馬鹿だった。
「ただ、ここじゃあ食事は早いもん勝ちだ。もたもたしてたら食いっぱぐれる。ひとつ学んだな?」
「え゛、ご飯抜き?」
あたしがショックを受けていると、ファーガスさんは笑顔を絶やさずにかぶりを振った。
「いや、今日だけは大目に見て残しておいたよ」
正直に言うと空腹で眩暈がするあたしはパッと顔を輝かせた。そんなあたしはやっぱり馬鹿だった。
ファーガスさんは笑顔でえげつない。
「ただし、ここを片づけてからだ」
――むごい。あんまりだ。
がっくりと項垂れたあたしを、マルロは勝ち誇ったように見ていた。
いいよ、片づければくれるって言うんだから、片づけます!
☠
……つ、疲れた。
毎日労働三昧だったあたしは体力には自信があったんだけど、今日はさすがに目まぐるしくて精神的につらかった。
全部片づけを済ませると、ファーガスさんはとりあえずあたしを船室のひとつに連れて行った。そこは医務室かな? 入った瞬間に薬臭さが鼻をついた。中央の寝台と机に椅子、棚には薬ビンの数々。用水の入った樽に明りを灯す燭台。窓がないから暗いなと思ってたら、ファーガスさんが火打ち石で燭台に火を灯してくれた。明るくなって、あたしが部屋を見回していると、ファーガスさんが言った。
「今日はここで寝なさい」
こんなちゃんとした部屋で休ませてくれるなんて思わなかった。厨房の片隅にでも転がされると思ってたあたしはびっくりして口を開いた。
「いいの?」
ファーガスさんは鷹揚にうなずく。
「ああ、もちろんだ。ただし、薬がひとつでもなくなっていたら、そんな手ぐせの悪い指は明日のスープの具にするよ?」
「……はい」
このおじいちゃん、どこまで本気なのか怖くて訊けない。
「外から鍵をかけておく。じゃあ、また明日」
「お休みなさい」
パタリ、ガチャガチャって音がした。ほんとに鍵かけたんだ。まあいいけどね。
あたしはぽつりと部屋の中に佇む。ふぅ、やっとひと息つけた。そうしたら、その場に崩れ落ちた。
今更ながらに、あたしはこのわけのわからない現状に頭を悩ませる。不安はないわけじゃない。でも、自分で選んで起こったことだから、これはあたしが受け入れなきゃいけないことだ。
しばらくぼうっとして、それから立ち上がると、あたしは部屋の中にあった綿布を一枚拝借した。
机の上に、ピッチャーに入った水がある。そばにあった桶に水を移して、そこに綿布を浸して絞った。そして、服のボタンを外す。
お風呂があるのかどうかよくわからないけど、今日は入れてもらえそうにないから、とりあえず体を拭いて我慢しようと思った。
ブラウスの前を開き、肩から滑らせる。先に上半身だけ拭いてしまおうと、腕を綿布で擦ると、背後でガチャ、と音がした。あたしは思わずヒッと声を漏らして振り返った。あ、体は前だけ隠して。
すると、にっこりと綺麗な笑顔を向けるエセルさんがいた。昼間会った通り、紫がかった長い髪をひとつにまとめて、細身の体をシャツとベストで包んでる。美男子なんだけど、硬派っぽいディオンさんとはタイプが違うな。……つまり、軟派ってこと。
「こんばんは」
この状況でそういう普通の挨拶する?
あたしが唖然としてると、エセルさんは後ろ手で扉を閉めた――閉めたよ!
「あの、鍵かかってましたよね?」
あたしが冷ややかに言うと、エセルさんはすっとぼけた。
「君の心の鍵なら今から開錠するよ?」
アホかコイツ、と正直思った。あたしは嘆息する。
「あの、赤の他人にこんな格好見られたくないんで、早く出てって下さい」
かなり冷静にはっきりと切り返したけど、エセルさんはそんなことじゃ怯まなかった。
「赤の他人、ね。僕はエセルバート=レグルス――ディオンのお抱え操舵手だ。これでいいかな?」
「操舵手が持ち場離れていいんですか?」
「今は落ち着いてるし、助手に任せてある」
エセルさんが笑顔で一歩進んだので、あたしは二歩下がった。それが限界だ。
仕方がないからあたしはエセルさんに訊ねる。
「もしかして、あたし、貞操の危機ですか?」
「うーん、危機って言い方はどうなのかな?」
コイツ……。
殴ってやりたくなったけど、今は手が離せないから我慢した。あたしはこれ見よがしに嘆息してみせる。
「あの、あたしはそれしか方法がなければ体で払うとは言いましたけど、あれはもう無効です。ファーガスさんがちゃんと別の仕事を与えてくれてますから。それとも、エセルさんに体を預けると何かあたしの得になりますか?」
「得に? うん、愉しいひと時を味わえ――」
「お引取り下さいね」
にっこり笑って遮ってやった。すると、エセルさんはクスクスと笑った。
「その格好でお引取り下さいと言われてもね。最初に見た時から気に入ってたんだけど、そういう肝のすわったところもいいね。気の強い娘ってコトが始まると案外――」
そこでバコン、と鈍い音がした。この部屋の扉にエセルさんが後頭部を強打された。こっちに意識が集中してたからか、全然気づかなかったみたい。急にドアを開いたのは、好青年な人だった。
「うわ!」
半裸のあたしを見て仰け反ってる。純情なのか、単に驚いただけなのかは知らないけど。
で、エセルさんをものすごい形相で睨んで胸倉をつかんだ。
「お前なあ!!」
「なんだ、ゼノン、お前もミリザを狙って来たのか?」
痛みから回復したのか、平然とそんなこと言う。
好青年――ゼノンさんは怒った。
「お前と一緒にするな! 舵取りがお前の助手に代わってたから、嫌な予感がして来てみただけだ!」
嫌な予感はすごく正しい。
「ディオンはまだ気づいてないから、今ならまだごまかせる。戻るぞ」
「えー」
「船の上であいつを怒らせるようなことはするなよ」
エセルさんは渋々納得したみたい。ほっ。
「どうも危ないところをありがとうございます」
深々と頭を下げたあたしに、ゼノンさんは困惑してた。
「あ、うん。君も気をつけてくれ」
「そうします」
だから二人とも早く出てって下さい。