⑧祓魔師
幽霊船から這い出し、ヴァイス・メーヴェ号の船べりに手をかける悪霊たち。腐臭と磯臭さが入り混じった生臭いにおいが鼻をかすめる。
そのおぞましさに絶叫したあたしをゼノンが庇うようにして力強く肩を寄せてくれた。
この船は、悪霊に沈められてしまう?
でも――。
腐りただれて膨らんだ顔をした悪霊は突如、あたしの声を掻き消すような苦悶の叫びを上げて仰け反った。数体が何か湯気のような煙を手から上げて、そのまま夜の海へと落ちて行く。
あたしはようやく少し落ち着いて叫ばずに眺めることができるようになった。
悪霊たちの耳を塞ぎたくなるような声と水音の中で、エセルのどこか冷酷な笑い声が耳に届いた。
「船べりに聖水を撒いておいたからな。よく効くだろ?」
聖水? 聖水って、神父さんが洗礼の時とかに使ってるやつ?
なんでエセルがそんなもの持ってるの?
そんなあたしの疑問にひとつずつ答えは与えられない。エセルはシャラリと音を立てて腰から下げていた鎖のようなものを手に取った。
「この船に手を出すなんて、そんな身の程知らずには罰が必要だな」
その聖水も次第に効き目が弱まって来たのか、次から次へと湧き出る悪霊が船べりを越えそうになる。うわー、やだ!!
シャラリ、とまた音が鳴った。そうして、あたしはエセルの手もとを見た。エセルの手に輝くのは十字の形をした聖具、ロザリオだった。
あたしが呆然とその光景を眺めている間にもエセルはふわりと腕を振るった。ロザリオの光芒が何かを描くように見えた。そうして、つぶやく。
「――天にまします我らが神よ」
か、神?
エセルが似合わない言葉を口にしてる。
「罪深き彼らの罪を赦し給え。その御心が天で行われるように、地でも救いの手を差し伸べ給え」
でも、悪霊たちにはエセルの声とロザリオと聖水の効果があったみたい。一瞬、グゥグゥ呻いて苦しみ出したかと思ったら、サラサラと砂みたいに体が崩れて風に散って行く。それは信じられないような光景だった。
悪霊たちが散って行く中、エセルは静かに祈りを唱えてる。その背中はまるで別人みたいだった。
あたしはそっちにばかり意識が集中していて、あたしとゼノンのいる反対側の船べりに一体の悪霊が回り込んで来ていることに気づけなかった。こちら側の船べりには聖水を撒いてなかったみたいで、悪霊はあっさりと上がって来た。
オオオォって叫びながらあたしたちに向かってズタズタの腕を振り上げる。とっさにあたしを庇うようにして抱き締めたゼノンの腕の間からあたしは腕を伸ばして、絶叫しながら銃を発砲してた。だって、そうでもしなきゃ殺される、そう思った。……ううん、そんな冷静な判断なんて少しもできてなくて、ただのパニックだったのかも。
「ミリザ!!」
ディオンの声がした。
悪霊は、あたしの放った弾丸を肩に受けたけど、そこにぽっかりと穴が開いただけで、痛みなんかは感じていない風だった。ただ、一瞬動きが鈍った。その隙に飛んで来た小さな小瓶が悪霊の頭に直撃する。パリンと小さな割れる音がして、中に入っていた聖水らしき水が降りかかる。
その途端、悪霊はさっきとは比べ物にならないような悶絶振りだった。
「ごめんごめん、そっちに回ると思わなくて」
エセルは笑ってそう言うけど、目だけは鋭く悪霊に向いていた。呻るような悪霊の声に、エセルは冷淡に吐き捨てる。
「……胸糞悪い名前呼ぶなよな」
何? あたしには叫びにしか聞こえない悪霊の声が、エセルには誰かの名前に聞こえたの?
「信仰を堅く立てし我らに、吼え猛る獅子のごとく食い尽くすべきものを捜し求める悪魔に立ち向かう力を与え給え」
悶え苦しむ悪霊にロザリオを掲げ、唱える。最後の一体もまた砂みたいに消えていなくなった。
あたしは脚から力が抜けて行くのを感じた。すると、ずっとあたしを支えていてくれたゼノンからあたしをもぎ取るようにしてエセルがあたしを抱き締めて頭を撫でた。
「怖かったろ? もう大丈夫だから」
「だ、大丈夫って、もう何がなんだか……」
あ、なんか安心したら涙が滲む。そんなあたしを満足げに眺めながら、エセルはクスクスと笑った。
「ミリザでも悪霊は怖いんだね。可愛いなぁ」
改めて抱き締められたので、今度はちゃんと抵抗した。
「なんなのあれ? それに、エセルって操舵手じゃないの? なんで悪霊祓いみたいなことできるわけ?」
あたしが早口でやっとまくし立てると、ゼノンは心底困ったように言った。
「他の船員たちには船内から出てこないように通達したんだけど、ミリザには知らせない方がいいかと思って黙っていたのが裏目に出たね。ごめんな」
「幽霊船が出る海域なんてミリザが知ったら、逆に興味持って首を突っ込むんじゃないかってみんなで話してたんだけど、そこはやっぱり女の子だったね。いや、悪かった」
エセルがニヤニヤとそんなことを言う。失礼な!
あたしがムッとすると、エセルはロザリオをシャラリと握り直す。
「親が神職なもんでね。僕も十年位前までは神父になるつもりだったんだ。まあ、これはその名残だ」
神父? うわ、似合わなっ。
あたしがそう思ったのが伝わったみたい。エセルはクスリと笑った。
「ま、今となっては馬鹿馬鹿しいとしか言えないんだけど」
そういえば、あたしの故郷アレクトール王国では神父は基本生涯独身だったはず。ルースターでは神父の妻帯が許可されてるんだ? そういうところがルースターの方が先進的なのかもって思えた。
でもさ、魔女の孤島へ渡るためにエセルの力が不可欠って、こういうことだったんだ。孤島に行く海路にはああした幽霊船の出没する海域があるってこと。その幽霊船も、いつの間にか消えてた。
か、帰りもまさかこれ?
あたしはぐったりと疲れて船室に戻った。




