②不機嫌エセル
嫌がるだろうとは言われてたけど、ほんとにエセルは嫌がった。
握っていた操舵輪にだらしなくしなだれかかると、ニヤニヤと笑う。それは、エセルが今までに見せたどんな笑顔よりも背筋が寒くなるものだった。
あたしが怯んでいても、ディオンはお構いなしに強い調子で続きを告げた。
「テルシェの薬が必要なんだ。仕方ないだろ?」
すると、エセルは更にニヤニヤと笑った。
「仕方ない、ね。いつも仕方ないで押し切る。で、最後には『船長命令』だろ。僕に拒否権なんか最初からないじゃないか」
睨み合う二人を、ゼノンがハラハラと見比べていた。いつになく険悪だけど、事情がわからないあたしには口が挟めない。
ディオンはふぅ、と嘆息する。そうして、少しだけ柔らかい空気を出した。
「とにかく、頼む」
結局、ディオンにそう言われるとエセルだって折れるしかない。一瞬だけまるで氷みたいな目をして、それからつぶやいた。
「はいはい、船長の仰せのままに」
うわ、嫌そう。
なんだろ、すごくイライラしてる。
いつもは軽口叩いてばっかりで、流れる風みたいにつかみどころがないのに、今は誰も近づくなと全身で語ってる。こんなエセルは初めてだった。
「いったんキクレーの町に停泊して、それから孤島へ向かう」
エセルはもう、返事をしなかった。返事の代わりに軽く手を上げただけだった。
うーん、空気が痛い。
ファーガスさんは先に厨房に戻ってる。成り行きをただ見守っていたあたしとマルロをディオンが目で追っ払う。あたしたちはこれ幸いとその場を離れた。
「――ねえ、マルロ。マルロは魔女に会ったことはあるの?」
あたしが階段を下りながらなんとなくそう訊ねると、マルロはスッと目を細めて振り返った。
「あるはずないだろ。ボクが船に乗せてもらったのはお前が図々しくやって来たあの時が初めてなんだからな」
図々しくは余計じゃない?
「そっか。じゃあ、なんでエセルがあんなに嫌そうなのかもわからないよね?」
「知らない。あいつはいつだってそうだ。ヘラヘラしてるくせに、本心は言わない」
確かにそうなのかも。全部冗談で煙に巻いて、本心を覚らせない。
でも、踏み込んだら多分後には引けなくなるから、あたしは眺めておくだけにする。
魔女かぁ、とあたしはつぶやいた。
「ファーガスさんは賞賛してたから、きっと悪い人じゃないんだろうね」
そんなあたしの言葉に、マルロは小馬鹿にしたような目をした。
「優れた薬を作る優れた薬師なら、人格なんて二の次だ。そういう安っぽい判断するなよな」
大人びたこと言ってるけど、誰かの受け売りかな。
まあ、確かにお金を払って薬を買うのなら、その関係にさえ信頼が置ければ、人間性までは問わないのかも。
あたしたちはファーガスさんのいる厨房に戻って手伝いを始めた。今日の食事は出航してすぐだから、まだ新鮮な野菜や生乳もある。傷む前に使い切らないとね。
芋とミルクをたっぷり使ったスープ、ヴィシソワーズ。バターライスを詰めた鶏肉の蒸し焼きサラダ添え。バターライスがはみ出さないように太めの糸で鶏肉を縫い止める。マルロは汗だくになって玉ネギを炒めてた。
食事の支度は数が数だから大変だけど、これがみんなの力の源だと思うとがんばれるよ。
特に、船を漕ぐパルウゥスのみんな。独自の言語を操り、人の何倍もの力とスタミナを持つ小人族。
あたしの大好きなみんな。
いくら風が助けてくれるって言っても、過酷な仕事だもん。体力をつけてもらわなきゃね。
みんなのところに運ぶ準備はできた。パルウゥスたちは今回の旅では三十五人もいる。一人で運べる量じゃないから、マルロと二人がかりだ。で、マルロはいつも先に戻ってディオンのいる船長室に食事を運ぶんだけど、今日はファーガスさんに意外なことを言われた。
「ミリザ、今日はお前が船長室に食事を運びなさい」
「えー」
ととと、思わず本音が。
ディオンが嫌っていうんじゃないよ。ただ、パルウゥスたちとの触れ合いがあたしの癒し。
ファーガスさんはクスリと笑った。
「宿題はできたのかい? ちょっと報告しておいで。なんだ、宿題も終わってないのにのん気に構えていたなんてことはないだろう? なぁ?」
ひー。ファーガスさんが苛める!
宿題っていうのはディオンから航海始めに出されたもの。パルウゥスたちの言葉、エピストレ語を学ぶための宿題。ディオンはあたしの語学の先生でもある。
終わるわけない量の宿題なんだけど、やっぱり提出しなくちゃ駄目?
あたしがなんとなく青ざめていると、ファーガスさんは不意に苦笑した。
「確かにミリザの方が手馴れている。けれど、たまにはマルロにもパルウゥスたちと触れ合う時間を増やしてやらないとな」
あ。
マルロはパルウゥスたちとはまだそれほど打ち解けていない。音楽を聴かせたり、以前よりも少しは距離が近くなったとは思うんだけど、大体はあたしが一緒にいるから。一人だとどうだろ?
ちょっと気後れしているというか、苦手そうなんだけど。
うん、ここは突き放して見守るべきかな。
「はい、わかりました」
残念だけど、仕方ない。
あたしとマルロは料理を運んで船の下層へと階段を下りる。海は穏やかでそれほど揺れないから助かるな。
漕ぎ手のリズムを取る太鼓の音がして、パルウゥスたちがあたしたちに目を向けた。
「Στην υγειά μας για την καλή δουλειά.Θα σας δω ξανά αργότερα」(お疲れ様。また後でね)
あたしはそれだけを告げると、手を振って去った。漕ぎ手座にいたパルウゥスのリーダー、ヴェガスはちょっと首をかしげた。うん、また夜に会えるからね。




