⑥漕ぎ手たち
う、重い。それに、熱い。
ビーフシチューのたっぷり入った鍋は重い。でも、マルロは重たい方を持ってくれる気はないらしく、食器を乗せたトレイを手に涼しい顔して先を行く。振り返ってひと言、
「遅い」
とだけ。はいはい、わかってます、センパイ。
あたしはせっせと、それでもシチューをこぼしてしまわないように急いだ。船がいつ揺れるかもわからないし、なるべく壁に沿って進む。
階段を更に下へ。船をたくさんの櫂で漕ぐわけだから、漕ぎ手は最下層にいるんだろう。階段を下まで下りると、特に扉はなかった。漕ぎ手の奴隷たちは鎖で繋がれているから、鍵も扉も要らないのかな?
ドン、ドン、と太鼓を叩くみたいな音がするのは、きっと合図だ。それに合わせて漕いでるんだろうね。
――奴隷、か。
ひどい仕打ちをされてないといいんだけど。この食事は船員と同じものだし、食事に関してはきちんとしてるみたいだけど――。
とりあえず覚悟を決めてあたしはその最下層に目を向けた。
ドン、ドン、と音が響く。そこには、『小さな人たち』がいた。パルウゥス――そう呼ばれる小人族。マルロよりも更に小さいけれど、どちらかと言えばがっしりしてる。あたしも目にしたのは初めてだけど、ああ見えて、普通の人間の何倍もの力を持ってるって言うんだからそれもそうかな。ザ、ザ、と波を掻き分け小さな体を折り曲げて櫂を動かす。
頭髪はみんな茶色でパサッとしてる感じ。服装は飾り気のないシャツとパンツ、ショートブーツ。奴隷と言っても薄汚れてはない。清潔に保たれてる。彼らは漕ぎ手座で一心不乱に櫂を動かしていた。足に――枷はない。ああ、一角にはちゃんと交代で休めるような場所まで作ってある。
思っていたような凄惨さはなくて、あたしは逆に戸惑った。そんなあたしに、マルロが戸口に立って誇らしげに言う。
「ディオンはパルウゥスを隷属させているんじゃない。交渉して雇い入れているんだ。だから、パルウゥスは労働に応じた報酬をくれるディオンのために働く。鞭打たれて従わされるんじゃないんだから、わざと船が立ち行かなくなるように陥れられることもないんだ」
ああ、ほんとだ。最初から頼んで雇えばいいんだ。
なんでみんなそうしないのかな? 奴隷になんてしなければいいのに。
あたしも気づかなかったけど、どうして他の船長たちにはその発想がないのかな?
そんな疑問があたしの顔に現れてたんだと思う。マルロは小馬鹿にしたような顔をあたしに向けた。
「なんで他の船はディオンみたいにしないのかって思ってるだろ? それは、『しない』んじゃない。『できない』んだ」
「できない? なんで?」
すると、マルロはトレイの上に乗っていたハンドベルを鳴らした。パルウゥスたちはハッとしてこちらに目を向けた。思ったよりもつぶらな可愛い目だ。
そうして、マルロは床に食器を置いてからあたしに言った。
「すぐにわかるだろ。じゃあな、全員によそってから戻って来いよ」
と、さっさと行ってしまった。取り残されたあたしはとりあえず笑顔を保ちつつ、任された給仕の仕事をこなす。パルウゥスは飛び飛びに抜けて来た。二十人くらいいるうちの半数、十人。みんなで抜けると船が漕げないから、交代で食べるんだね。
ほんとに子供みたいで可愛い。
さて、最初の一人にあたしはシチューをよそって手渡した。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
って、子供みたいな外見だからって子供とは限らないのかな? つい子供扱いしちゃった。
そのパルウゥスは不思議そうに小首をかしげた。
「Ποιος είσαι?」(あなたは誰?)
「へ?」
思わず変な声を出してしまった。今、なんて言ったの?
あたしが呆然としていると、そのパルウゥスは苦笑した。
「Είναι δύσκολο?」(難しい?)
「ご、ごめんね? よく、わからない」
すると、そのパルウゥスは大きくうなずいた。きっと、通じないのはわかってたみたい。
でも、ちょっとだけ悲しそうな、もどかしそうな顔をした。
マルロが言ってた、『できない』の意味がやっとわかった。
パルウゥスは独自の言葉を喋る。だから、意思の疎通が困難なんだ。そのせいで隷属させられる。その方が手っ取り早いから。
あたしは列に並ぶパルウゥスたちにシチューをよそって手渡した。みんな、にっこりと笑っておじぎをする。ありがとうって伝えてくれる。あたしは、どうやって気持ちを伝えたらいいのかな?
パルウゥスたちがシチューを食べている間、真剣に考えた。そして、交代した全員が食べ終わった時、木皿を回収したあたしは一番最後にいたパルウゥスの手を握り締めた。硬い手の平だった。
「お仕事、がんばってね!」
言葉は通じないけど、伝えようとする気持ちがあれば、心は伝わる。
ほらね、パルウゥスは笑ってくれた。