⑦お昼時に
「――だからここ、Δεν υπάρχει『存在する』を『存在した』にするとΉμουν παρώνになる。二度は言わないからな。わかったな?」
マルロのところから戻ってすぐにディオンの部屋で授業。ディオンは厳しい先生だけど、教えてって言った以上は教えてくれるだけでもありがたいと思わなきゃね。
「はい」
普段はともかく、授業中は素直だから、あたし。
時間はいつもまちまち。短く終わるときもあれば、案外長い時もある。今日は割と長めだった。
集中が途切れたら駄目だと思うんだけど、ちょっとお腹がすいた、そんな頃。
コンコン、と上品なノックの音がした。その音で誰だかわかったみたい。ディオンは穏やかな声で返事をした。
「どうぞ」
カチリ、と扉を開けて入って来たのは、黒髪の貴婦人。年齢不詳だけど、四十代くらいにはなってるはず。だって、ディオンの実母だし。領主夫人、フォンタナ=フォーマルハウト様。
優しい微笑でシンプルな黒地のロングドレスを優雅に捌いて歩く。その後ろには食事の乗ったトレイを持ったメイドさんがいる。
「ご苦労様。でも、少し休憩にしなさいな」
ふわりと歌うような声だ。あたしまでうっとりしちゃうくらい。
でも、うっとりしてる場合じゃない。あたしは立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「わざわざありがとうございます、母上」
ディオン、ご両親には礼儀正しい。まあ、貴族様だからそんなものなのかな。
「ミリザさん、あなたも」
「はい、ありがとうございます」
今ではこうして笑顔を向けてくれるけど、最初はちょっとだけ嫌な顔をされた。あからさまにじゃないんだけどね、なんとなく感じちゃう程度には。
仕方ないよ、どこの馬の骨とも知れない娘を大事な一人息子が連れて来たら、あんまりいい気しないと思う。別に恋愛絡みでもなんでもないんだけど、それでもね。そういうの差し引いても、島の総家として新入りを警戒しなくちゃいけないのもわかる。あたし、未だに自分のことあんまり語ってないし。
それにね、エピストレ語を教えるっていうのも不安要素だよね。
今になってあたしを認めてくれたって言うより、ディオンの決断だから渋々納得したって言うのがほんとのところだと思う。
メイドさんはよく見たらあたしの部屋の隣のリネさんだった。二十歳くらいで、まっすぐに切りそろえた前髪の可愛いメイドさん。普段は砕けた態度で接してくれるけど、今はお仕事中。奥様の手前か、物静かだった。静々とトレイに乗ってたグラハム粉のパンと彩り鮮やかな生野菜やハムのサンドウィッチをテーブルに置いた。それから、何か柑橘の香りがする冷たいお茶をグラスに注いでくれる。お茶をピッチャーごと残して、リネさんは一礼すると下がった。
ディオンも鷹揚にうなずく。
「では、がんばってね」
奥様が笑いかけてくれたから、あたしもはっきりと答えた。
「ありがとうございます、頂きます」
そうして、奥様とリネさんが去った。あたしは緊張から解放されて椅子にドカリと座る。頂きますと手を合わせると、ディオンはすでに食べてた。あたしも続けてサンドウィッチを頬張る。こういうフレッシュな野菜って船の上ではあんまり食べられないし、陸にいる時に食べなきゃね。うん、美味しい。
あたしがもぐもぐと口を動かしていると、ディオンがちらりとあたしを見て言った。
「お前、島へ着いてからは落ち着いてるらしいな?」
「へ?」
「夜泣き」
夜泣きって、赤ちゃんみたいじゃない!
時々ちょっと寝ぼけちゃうだけでしょ!
そんな心の声はサンドウィッチと一緒に飲み込んだ。
「おかげ様で」
余裕を見せてにこりと笑っておく。
すると、ディオンはフン、と鼻で笑った。
でも、ディオンは詮索しない。本当は自分のことをちゃんと話さなきゃいけないんだと思う。ここに置いてもらってる以上は。
なんだけど、実父と継母に娼館に売られそうになったから家出しましたって、言ってどうなるの?
それは大変な思いをしたな、って優しく慰めてくれる?
それとも、甘ったれるなって吐き捨てられる?
……どっちだかわかんないよ。って、多分そのどっちも嫌なんだ、あたし。
ディオンだったら、そうか、の一言で終わりそうな気もする。きっと、ディオンにはあたしの事情なんて大したことじゃない。
訊かれたら答えるつもりはあるからね?
でも、訊かないでいてくれて、ほんとは少し嬉しい。
それが正直なあたしの気持ちだった。




