②出発
この町はアレクトール王国って国の港町ヴァローナ。
アレクトール王国はそこそこ大きな国。でも、同じくらいの国土と国力を持つルースター王国って国と海を挟んで睨み合ってる。もう何百年も海戦を繰り返し、日々小競り合いを続けてる。最近は大規模な戦争はないものの、腹の探り合い。
二国間の狭間の海は狭くて、船乗りたちはそこを『強欲の三角形』と呼ぶ。二国以外にもそこを通過する国は、両国へ通過料を支払って通ることを許される。それを払わずに通過しようものなら、王の許可のある海賊船――私掠船の餌食になるらしい。
かと言って、その海峡を抜けずに大陸を越えようとするなら、その分大回りの船旅をしなければいけないわけで、そうなると船乗りの体の負担も大きければ、それだけ費用もかかるし危険が高い。他国の船は通過料を渋々払うって寸法。で、そこで得たお金はお互いの大砲の弾にでもなるんじゃないかな?
アレクトールの国王もルースターの女王も、ずーっと続いて来た小競り合いを収める気は今のところないみたいだし。ま、下も下のあたしが気にすることじゃないけどね。
あたしは世界平和なんて大それたこと願わない。あたしはあたしの身を守るだけ。
で、北から来た船は大体このヴァローナで一端止まって、そこからルースターの方へ南下して『強欲の三角形』を抜ける。だから、その船のどれかにちょっとだけお邪魔しよう。
お金はない。無銭乗船って言ったらそれまでだけど、どうせでっかい荷物運ぶんだから、あたし一人増えたくらいなんでもないでしょ?
あたしはそのまま家に戻らなかった。
戻れば首に縄をつけられに行くようなものだから。いくらオカアサンでも、あたしがこのまま逃げるとは思ってないはず。逃げるならそれ相応の準備をしてからだから、少なくとも一度は家に帰るって油断してる。
今のあたしはヨレヨレした若草色のエプロンドレス。どう見たって旅に出る格好じゃない。ポケットの中には――ゼンマイ時計がひとつ。それだけ。
それでもいい。このままここで腐って行くくらいなら、短くても自由に生きるから。
あたしは自分の足で、自分の定めた目的に向かってしっかりと歩き出した。
まず、質屋に行った。そこであたしの唯一の財産、ゼンマイ時計を売った。仕事をするには時間厳守だからと持っていたけれど、もう要らない。
あ、やっぱり安い。銅貨三枚。仕方ないな。
そのお金であたしは保存の効く水分量の少ないパンを買った。水もその辺にあった空きビンを拾って洗い、少しだけ用意する。紙袋にまとめて持った。今、あたしができる準備はここまで。
さて、目的地は港なんだけど、まだちょっと日が高い。歩いて行っても二十分ってところ。
あたしはまず港に向かうと、密航する船を物色した。
運河にかかる橋から波止場の方を眺める。すごい高さだし、見晴らしはいいけど落ちたら死ぬな。
――うん、あれにしよう。
キャメルに輝く大きなガレー船。畳まれた帆と五本もある柱からは夥しいロープが張られてる。中に運ばれて行く積荷から、きっと商船だ。
大きな船の方が密航者は見落とされやすい気がする。出航は明日の早朝かな?
あたしはなんとかしてあの船に乗り込まなくちゃいけない。
さあ、どうしようか。
橋を降りて波止場に近づく。夜の波止場には警備の番兵がいた。とりあえず目につく番兵は、手前にいる若い男性と、奥にいるオヤジくらいの年齢の男性。あ、年取った方があくびしてる。手を振って去った。もしかして、交代の時間? ――よし。
あたしは瞬時に覚悟を決めた。
正面からスタスタと歩み寄り、商船の番兵の若い男を上目遣いに見上げた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
番兵はとりあえず返事を返した。若い娘相手だから、あんまり警戒してない。あたしは照れたような仕草で視線をそらした。
「あの、あたし、父の忘れ物を届けに来たんですけど……」
あたしはそこで言葉を切るとちらりと男を見る。そして――。
「いきなりですけど、あなたのお名前は? どうか教えて下さいませんか?」
男が自分に気があると勘違いするように、熱っぽい声を意識する。男はわかりやすいくらい簡単に戸惑いを見せた。
「え、ああ、ジェイクだ」
「ジェイクさん……あの、恋人とかいらっしゃいますか? もしよろしかったら、あたしと少しだけお話下さると嬉しいです」
「あ、今、仕事中なんだけど……」
「ええ、わかってます。少しでいいんです。あたしも父に届け物をしなくちゃいけませんし」
でも、とあたしは思わせぶりに言う。
「ここで別れたらもう二度とお会いできない気がして」
甘えるような目を男に向ける。娼館のオネエサマ方の手練手管を生で見て来たあたしだ。これくらい見よう見真似でできる。
「じゃあ、あっちで待ってますね」
去って行くあたしに名残惜しそうな視線を向けてる。手ごたえを感じたあたしは、『あっち』――つまり倉庫の裏をぐるりと迂回してもう一度商船の前に戻った。
よし、いない。チョロいよ、オニイサン。
とはいえ、戻って来る前になんとか潜り込まなきゃ。渡しを越えて商船の甲板に立つ。薄暗くてよく見えない。かと言って、堂々と中に入ったらさすがにバレちゃうよね?
あたしは甲板の上の樽や木箱を素早く開けた。木箱は、あたしくらいならギリギリ入れる。あたしはためらいなくその中に潜り込んだ。そのすぐ後に、あの番兵が誰かに怒られてる声がした。ジェイクは腹具合が悪くて、なんて言い訳してる。ごめんねと一応心の中で謝っとくね。
狭いし暗いけど、ちょっとの辛抱だよね?
そのまま朝が来て、慌しい喧騒の中、そのガレー船は出航した。