㉙逃げ出すこと
アレクトールの大地が見えたのは、それから四日後のこと。
でも、あたしはヴァローナの町しか知らないで育ったから、その他の土地を見ても特別何も思うことはなかった。それどころか、一時的に滞在しただけのルースターの方に後ろ髪を引かれる思いだった。
「今日中には着くよ」
ヒルデさんが洗濯物を干すあたしの背中に言った。
「うん、もうすぐお別れ……」
「最初に会った時が嘘みたいに大人しかったね、あんた。つまらない」
……そう言われても、ね。
「キノノスに着いたら、そこの港でヴァローナ行きの船に乗るといい。国内船なら難なく着けるだろうよ」
まあそうなんだけど、あたしは本気でヴァローナに行きたいわけじゃない。
「うん、ありがとう」
そうおざなりに答えた。
ヴァローナに帰ったら、どうなるのかな?
今からでもオカアサンはあたしを娼館へ売り渡すって言うかな?
オヤジは怒り狂ってあたしのこと殴るかも知れない。
それがわかっててみすみす戻ったりしないよ。実家に帰るっていう選択は、ディオンたちのところに帰るのと同じようにないんだ。
ふと、あたしってこうやっていろんなところから逃げ出すことでしか生きて行けないのかなって思った。
つらい日常を捨てて旅に出た。
しがらみを捨てたんだ。
色々なことを考えた末の決断だったけど、結果としては逃げてる。
こんなことを繰り返して、あたしはいずれ逃げ場をなくして行き詰ることになるんだろうか。
でも、どうしたらいいのかあたしにはもうわからないよ……。
そうして、ウラノス号はキノノスへ入港することができた。
やっぱり、個人の船だからよかったのかも。ただ、町は活気づいてなかった。昼間なのにどこか薄暗い印象で、港もうるさいのは海鳥くらいに思えた。
跳ね橋が降ろされて、あたしは荷物を抱えると、甲板でヒルデさんに頭を下げた。
「ありがとう。ヒルデさんのおかげで助かった……」
ご恩は忘れませんと言いたいところだけど、前回の迷惑もあるからそこはトントン。
ヒルデさんはフン、と軽く受け流す。アモスさんとイーサンさんは何か言いたげ。
あたしはちょっとだけ笑った。
「もうそうそう会うことはないのかも知れないけど、元気でね」
それだけ言うと、あたしはきびすを返した。そうして跳ね橋を渡り出す。すると、そんなあたしの後に続く振動があった。思わず振り返ると、アモスさんとイーサンさんがついて来てた。
「え?」
唖然とすると、アモスさんがぼそりと言った。
「ヴァローナ行きの船に乗るところまで見届けろとうちのボスの命令だ」
げ。
善意かも知れないけど、迷惑!
でも、そんなこと言えない。
「あ、ありがとうございます」
声が震えたけど、無理して笑った。
どうしよう、この二人のことなんて絶対に撒けない。
本当にね、船を降りてすぐ、町でゆっくりする暇もなくあたしは二人が手配してくれたヴァローナ行きの船に乗るハメになったんだ。
馬車でもいいかなってつぶやいてみた。陸続きだから馬車でも行けるはず。本音は、馬車なら途中で降りられるから。
でも、馬車で行くよりは海路の方が早いから船の方がいいって言われただけだった。
大きな二人に挟まれて、あたしは逃げることもできずに船に乗った。……向こうに着いたら馴染みのところは全部避けて馬車を拾わなきゃ。気が重いな。
乗った船はガレー船。……この船の底にもパルウゥスがいるのかな?
そこを覗いてしまったら、あたしはまた同じことを繰り返す。いないことを願うしかなかった。
甲板の船べりに立つと、波止場からアモスさんとイーサンさんが手を振ってくれた。あたしも手を振って返す。
ちゃんと船に乗せて見届けましたってヒルデさんに報告するんだろうな。
今になってちょっとだけ思った。
やっぱりヒルデさんはディオンの味方で、あたしをヴァローナまで送り届けたことを喋るつもりなんじゃないかなって。
あそこであたしを船に乗せないって突っぱねたら、あたしの消息がわからなくなる。それよりは故郷に送り届けた方が居場所の把握はできると思ったのかも知れない。
全部、あたしたちのことを心配してくれてのことなんだろうとは思う。
でも、今回はそんなに簡単なことじゃないんだよ。
この広い世界で、本気で逃げようと思って身を隠す人間を探し出すことなんてできないんだ。