㉖遠くへ
隣の港町がどの辺りなのか、あたしはよく知らなかった。だから、その日のうちに着けるとも思ってなかったんだ。
苦しい気持ちがあたしの時間の感覚を狂わせて、あっという間に着いたような気にもなった。
馬の嘶きで我に返る。船とはまた違う小刻みな揺れが終わり、最後に馬車が止まる衝撃があった。
「さ、着いたよ」
車体の外から御者のおじさんが言う。馬車の扉を開けてくれた。
「ありがとう」
あたしが手を借りながら下りると、おじさんはにっこり笑った。
「若い娘さんが一人では物騒だから気をつけるんだよ」
「はい。でもここに親戚がいるので大丈夫です」
なんて、いるわけない。そう言っておいた方がおじさんが気にしないで帰れるかと思っただけだ。
おじさんは安心してくれたみたい。そうかい、と言って笑顔で去った。あたしは手を振って馬車を見送った。
……もう、後戻りはできない。
湿った風に吹かれながらあたしは前を向いた。
お金がいつまで持つかわからない。これでなるべく遠くまで行かないと。
途中、日雇いの仕事をこなしながらだったらなんとかなる。
とりあえず、海を渡ろう。故郷アレクトールへ。
ルースターにいたら、絶対にディオンたちと顔を合わさないとは言えないから。
こんな形で祖国に戻ることになるなんて、思ってもみなかった。
あたしは石畳の道を歩く。港へと続く道だ。でも、辺りはもう暗いから、今日はどこかへ泊まった方がいいのかな? 今日はもう出航する船はないんだろうな。
でも、あんな戦争があった後でアレクトールへ渡る船はあるのかな?
その辺りも調べないと。
色々と考えながら歩いた。まばらな街灯の明りは心許ない。
けど、一人で生きるって決めたんだ。不安だって一人で抱えなくちゃいけない。
足が自然と速まる。ほとんど駆けるようにして先を急いだ。
そうしてると、歩いて来た二人組の若い男の人の片割れがあたしの前に足を出した。
「っ!」
それをなんとか避けたけど、バランスを崩した。そんなあたしの腕を男がつかむ。ちょっと寄り目で、会ったこともない相手だ。こんなところに知り合いなんているはずもないんだけど。
「そんなに急いでどこへ行くんだ?」
ニヤニヤ、面白がってる。こういうタイプってどこにでもいるよね。
今までいろんな人に会って来たあたしには、こいつは小物にしか思えなかった。事実そうなんだ。
どこだっていいでしょ。そういう気持ちを込めてその手を振り払う。
「ごめんなさいね。あなたの相手はしてられないの」
怯えも見せずに言い放ったあたしに、男は気分を損なったみたい。期待した反応じゃなかったんだろうな。ほんと、めんどくさい。拳銃を持ってたらそれで脅して追っ払ったのにな。
「随分気の強い女だな」
そんなことを言う。隣の友達らしき人は少しだけまともで、やめとけよってつぶやいた。でも、そいつは聞かない。
ああ、もう、こんなのに構ってる場合じゃないのに。
道行く人はいなくもないんだけど、時間帯のせいか割と酔っ払いが多い。面白がって眺めているだけで助けてくれる気はないみたい。
どうにかして切り抜けないと。
あたしが考えを巡らせていると、港の方から歩いて来る大小の影があった。一人、二人、三人……。
その影が街灯の下を通って照らし出された時、あたしは真剣に困惑してしまった。どうして今、このタイミングで会うかな……。
相手はあたしに気づいてない?
あたしはとっさにうつむいて顔を隠した。
でも、カツンカツンと足音が鳴り響いて、凛々しい声は夜の町にすごく似合ってた。
「その娘が何かしたのかい?」
そばにいた男がたじろいだのがわかった。
「あ、いや、別に……」
あたしの時とは態度が全然違う。敵わない相手には尻尾巻いちゃうわけね。
ふぅ、と息を吐く音がして、もう一度あのハスキーな声がした。
「そうか。その娘はアタシたちの知り合いなんだ。ちょっかい出すんじゃないよ」
男は、はいって裏返った声を出して行っちゃった。あたしは恐る恐る顔を上げる。
そこには、呆れた目をしたヒルデさんがいた。
ヒルデガード=カペラ。
女だてらに海賊船の船長を務める彼女。長くうねった髪と日に焼けた肌。キリリと引き締まったその体の左右に立つのは、腹心の部下のアモスさんとイーサンさん。……お久し振り。
でも、今はのん気に懐かしんでる場合じゃないんだ。
「まったく、あんたはいつでも厄介事に巻き込まれるんだね」
それほどでも。
「お久し振りです、ヒルデさん。アモスさんとイーサンさんも」
あたしは笑って挨拶した。ヒルデさんたちはディオンの知己だ。下手なことは言えない。
ここはなんとかして切り抜けないと。
そんなあたしの心中を知ってか知らずか、ヒルデさんは言った。
「こんなところで立ち話もなんだ。ついて来な」
ヒルデさんはこの時、何かを感じてたのかも知れない。ディオンたちのことを訊ねなかった。