⑳敵の敵
あたしはそのまま眠ってたみたい。どれくらい眠ってたのかはわからないけど、外は明るかった。顔を向ける前からなんとなくそれを感じた。
でも、手前に暗く影が落ちる。眠っていたあたしを覗き込む誰かがそばにいた。
ハッとして目を開くと、その途端に頬に何かが触れた。
「泣いていたのか」
ぞわりと肌が粟立つ。シリウスの戦いに明け暮れる指があたしの涙をなぞった。
あたしはその手を振り払って下がれるだけ後ろに引いてシリウスから距離を取る。でも、壁にぶつかるだけでそんなに離れられたわけじゃない。シリウスはベッドに手をつくと、手を伸ばしてあたしの顎をつかんだ。
「まだ向こうが忘れられないわけか」
あたしはもう一度シリウスの手を跳ね除ける。そうして精一杯睨んだけど、あんまり効果はない。
どこか楽しげに笑ってる。
「まあいい。女は環境に馴染むのも早い。そのうち忘れさせてやる」
ふざけるな。
あたしは……。
あたしは…………。
その時、船が大きく揺れた。あたしはベッドの上だから大丈夫だけど。
シリウスはチッと舌打ちして部屋を出て行った。甲板へ行ったんだと思う。……何かあった?
まあいい。何かあったとしたって、あたしにはもういいんだ。
でも、船が沈んだらさすがに困るかな。せめてエルミスたちは助かってほしい。ボートとか積んであると思うんだけど。
あたしはどうしようか迷った。
何かが起こったとは限らない。このままここにいた方がいいのか、様子を見に行くべきか。
……じっとしていても仕方ないから、やっぱり部屋から出よう。
そう決断してベッドから下りた。そうしてドアノブに手をかけたけど、扉は開かなかった。ガチャガチャと揺すっても開かない。シリウスが鍵をかけたんだ。急いでたくせに、いつの間に……。
これ、沈没したらあたしは逃げられないじゃない。エピストレ語の知識を独占したいから、あたしが人手に渡るくらいなら船と一緒に沈めとか思ってるの?
そう考えたらやっぱり怖かった。
今度はさっきの揺れとは比べ物にならないような衝撃が船に走る。ガン、って――これ、大砲の弾がかすめたんじゃない?
もしかして、この船は襲われてる?
手薄な南へ船を動かしたけど、それは手薄だと見せかけただけの戦略だったりして。
シリウスの敵はあたしの敵じゃないかも知れない。もしかすると――なんて、都合のいい期待をしちゃいけないのはわかってる。でも、もしそうだったら、あたしは……。
ドアの前でへたり込むと、あたしはぽつりとディオンを呼んだ。
この部屋にひとつだけある窓。
その存在を思い出してあたしは窓辺にすがりつく。でも、そこから見えるのは海だけで、なんにも状況がわからない。
でも、この船内にも喧騒が響いて来た。トリストラム号に接舷している船は反対側なのかも知れない。そう思ってたら、甲板から人が降って来た。
飛び込んだんじゃない。突き落とされたんだ。あたしは思わず悲鳴を上げてた。
ガンガン、ってたくさんの音が目まぐるしく響いて来る。あたしは頭を抱えてうずくまった。
……戦いが、日常を侵食する。平和だった暮らしは幻だったとでも言いたげに。
これはあたしが招いた結果なのかな?
あの暮らしが嫌で家を飛び出したあたしだから、こういう目に遭うの?
荒々しい足音が船内にも響く。ガン、バン、って船室の扉を片っ端から開けてる気配がある。シリウスはどうしたのかな? 船内に浸入を許したってことは、負けたのかも知れない。敵は強いんだ。
誰が来るの?
今度はあたし、どうなるの?
足音が、この部屋の前で止まった。ガチャガチャってドアノブを回すけど、開かない。やっぱり鍵がかかってるんだ。でも、あたしとは違って、戦いを潜り抜けて来た屈強な人なら、あんな扉くらいどうとでもなるよね?
ドクン、ドクン。
心臓が痛いほどに跳ねる。あたしは胸もとをぐっと押さえて部屋の隅、ベッドの陰に隠れた。
やっぱり、ドアノブが叩き壊される音がして、その後で扉が蹴破られたみたい。すごい音がしてドアが内側に倒れ込んだ。あたしは息を殺して物陰に潜む。
扉が取り払われたせいで外の戦いの音が室内になだれ込む。でも、そんな中でも侵入者の足音がカツンカツンと聞こえた。
「……誰もいないのか?」
つぶやくような声。
でも、あたしはその声を他の誰かと間違えたりなんてしなかった。まさかって思う。あたしが都合よく作り出した幻なのかなって。
これが現実か、確かめずにはいられなかった。
あたしがベッドの陰から顔を覗かせると、そんなあたしにディオンはすぐに気づいてくれた。
力強くあたしの腕を取ってベッドの陰から引きずり出すと、あたしの顔を両手で押えて至近距離で覗き込む。
「ミリザ、無事か!?」
……間違いなくディオンだ。
すごくゆとりのない顔。真剣に心配してくれてる。必死であたしのことを捜してくれたんだってすぐにわかった。
あたしは返事もできないくらいの感情の波に飲まれた。声もなくボロボロと涙を零したあたしを、ディオンはほっと息をつきながら何かを言うでもなく抱き締めてくれた。そっと背中を撫でて、しばらくそうして泣かせてくれた。