⑱痛み
自分がつらいことは耐えればいい。自分が耐えれば誰かを裏切らずに済む。
どんな時でも守らなきゃいけないことがあるんだ。
あたしがそう覚悟を決めた時、耳もとで舌打ちが聞こえた。
「強情なヤツだ」
そう言ってシリウスはあたしから手を離した。あたしは素早く体を起こす。冷や汗が体中から噴き出すみたいだった。
シリウスは一度部屋から外へ出た。けど、すぐに戻って来た。……今度は何?
ほっとしたのも束の間だ。
あたしに苦痛を与えて支配しようとする。この人は諦めない。
でも、あたしだって諦めない。こんな人に屈したりしない。
その想いは絶対だ。あたしは命懸けで守るから。
――そう、思ってた。それができる自分だって。
なのに、シリウスはそんなあたしの心を見透かすような目を向けていた。それがすごく気味悪くて、でも怖がっているなんて風には見られたくなかった。
しっかりと自分を保ってそこにいた。
けど、荒々しい足音がして、部屋へ四人の男が入って来た。そいつらが引きずるように連れて来たのは――。
パルウゥスのエルミスとレオン。特にレオンはさっきもそうだったけどろくに動けない。小さく呻いただけだ。エルミスは怯えた目をしてそこにいる。まるで猛獣みたいに両手を鎖で繋がれてた。
パルウゥスは強い膂力を持つんだから抵抗できなかったわけがないのに、気持ちを支配されてしまってる。
シリウスは手下の男たちに顎で指図した。
その途端、レオンが乱暴に床に下ろされた。そうして――。
くぐもった呻き声が漏れた。男の足が弱りきったレオンの背中を押し潰す。
男は残忍に楽しげに笑っていた。
「Παρακαλώ να σταματήσει!」(やめて下さい!)
エルミスが痛切に叫ぶ。でも、彼らはエピストレ語を解さない。
レオンの背からどけられた足は、一度持ち上がってまた力強くその背中を蹂躙した。小さな体がそのたびにビクリと跳ねる。
「や……」
あたしは思わず口もとを押えた。そんなあたしをシリウスは満足げに眺めている。
小さな手を、汚い足が踏み躙る。指を潰すように、一本ずつ踏みつける。
「やめてよ! お願い!!」
シリウスの意図はわかってる。わかってるけど、あたしはそう頼まずにはいられなかった。
でも、シリウスは薄ら笑いを浮かべるだけで手下にやめろとは言わない。
「ろくに働きもしない役立たずだ。どうしようと俺の勝手だ」
レオンの声はもう聞こえない。ぐったりと動かない。
「Βοήθεια! Συγχωρέστε με!」(助けて! お願いします!)
エルミスの声が乱暴な音の中に混じる。
自分の痛みなら我慢すればいい。でも、他人の痛みはどうしたらいいの?
レオンを見殺しにしてでも、それでも秘密は守るべきなの?
――ごめんね、ディオン。
あたし、無理だ。
目の前で殺されそうなレオンを放っておけない。
感情的に動いちゃいけないって思うのに、それでもどうしても見過ごせない。
「やめて下さい」
あたしは震える声でそう言った。
「あなたに従います。だから、やめて」
すると、シリウスは楽しげに声を立てて笑った。全身の肌が粟立つ、嫌な笑い声だった。
そうしてシリウスは手を振って手下を制止した。
「女はすぐに情に流される。脆い生き物だ」
うるさい。
あんたなんかに何がわかる。
でも、ディオンもきっと同じことを思うんだ。
甘い考えを持った女なんかに大事な知識を与えてしまったんだって、後悔する。
ごめんね、あたし、他の方法が思い浮かばない。
誰かを裏切ることでしか誰かを守れない。
――泣くな。
あたしは込み上げる感情にフタをするようにして前を向いた。握り締めた拳の中で爪が手の平に食い込む。
エルミスが不安げにあたしに目を向けた。あたしは笑った。でも、笑顔には見えなかったかも知れない。
「Είναι εντάξει τώρα」(大丈夫だから)
それだけを言った。
シリウスは勝ち誇ったように笑っていた。