⑭危機
立ち上がれずにへたり込むエセルの頭や肩から流れる血の色を見たら、あたしは冷静じゃなくなってた。
物陰で素早く拳銃をホルスターから抜き取って、床板を蹴るようにして飛び出した。鋭い目つきをしたリーダー格っぽい男に、まっすぐ構えた銃口を向ける。本気で撃つつもりだったのか、カッとなっただけのことだったのか、後になるとわからない。この時はただ、エセルのことを助けなきゃって思った。
でも、それが浅はかだった。あたしは標的に集中するあまり、後ろに気が回らなくなってた。そんなあたしが本気の戦闘に加われるはずがなかったんだ。背後から伸びた長く太い腕が首に巻きついた瞬間に、あたしはそれを自覚した。ぐ、と容赦のない力が首を締めつける。首が千切れるんじゃないかってほどの圧力に呻くことしかできない。
「う……っ」
意識が飛びかけてて、体に力が入らない。拳銃があたしの指から滑って甲板の上に落ちた。ガチャンって硬質な音がしたけど、首を下に向けられなかった。あたしはそのまま足が半分以上浮いた状態で引きずられて行く。息が満足にできない。苦しい……。
「船長、こんな娘が銃で狙ってましたよ!」
あたしを捕まえた男が弾んだ声で言う。ご主人様に褒めてほしそうにしている犬みたいに思えた。
少しだけ腕の力が緩む。あたしはようやく首くらいは動かせるようになって、なんとか呼吸ができた。
でも、急に空気を吸い込みすぎてあたしがゴホゴホと咳をすると、傷だらけのエセルが叫んだ。
「ミリザ!!」
その途端に、船長って呼ばれた目つきの悪い男はエセルの腹をつま先で蹴り上げる。なんのためらいもない動きだった。
エセルの傷口から血の粒が舞った。
「エセル!!」
苦痛にむせ返るエセルの方へあたしは身を乗り出そうとしたけど、ほとんど身動き取れなかった。船長はすごく冷たい残忍な目をエセルに向けてる。
「お前の女か。戦争に女連れとは笑わせる」
肩から血が流れて行くエセルの腕を踏みつけ、無慈悲に体重をかける。エセルがその苦痛に喘いだ。
「やめてよ!!」
思いきり叫んだ。恐怖を凌駕する感情があたしを動かす。
腕が折れる! 肩の傷だってあれ、撃たれたんだ。
殺さないで。誰も殺さないで……っ。
戦場で馬鹿な願いだとでも思うのか、あたしの甲高い声に船長は顔をしかめた。けど、足はどけない。
緊張で心臓が張り裂けそうだった。そんなあたしを、船長は不意にじっと見た。そうして、エセルから足をどかしてくれた。ほっとしたのも束の間、手にしていたダガーをあたしに向ける。
この人なら本気で、簡単にあたしのこと刺すってわかった。この人にとってはきっと他人なんて物と同じなんだ。
ダガーには血の染みが点々とある。乾ききらない血に濡れて、それでも鈍く光ってた。
……刺されたら痛いんだろうな。もう、ディオンたちには会えないのかな。
再び襲った恐怖にあたしが固まってると、そいつは楽しそうに笑った。戦争の最中とは思えないくらいに軽やかに。
「なんだ、恋人の代わりに死ぬ覚悟はないのか? 薄情な女だな」
エセルがそいつの脚をつかんで、低く唸るように声を絞る。
「やめ、ろ……っ」
その途端、そいつは汚らわしいものでも見たかのように顔を歪めてエセルを蹴り飛ばした。意識もかなり朦朧としてたみたいで、エセルはその後起き上がらなかった。
「エセル!?」
生きてるけど、でも、ズタズタだ。
誰か――。
でも、誰かって誰に助けを求めたらいいんだろう?
周囲の船はそれぞれに敵襲に対応するので精一杯で、他の船まで助けに回るゆとりはなさそうだった。
後方で、安全に従軍するはずだった船たち。どこも兵力としてはあてにならない。
……なんでこうなったの? 大きく揺れ続ける船の上であたしは不安と戦った。
「船長、あそこ!」
そばにいた痩せぎすの男が海の一角を指差す。
あたしもとっさにそっちを見た。何隻かの船が、そこかしこで上がる大砲の煙の合間から見えた。ルースターの旗が翻る。異変に気づいてこっちに応援を回してくれた?
大砲の口がこっちに向いてる。
船長はチッと舌打ちする。
「判断早いじゃねぇか。あの雌豚もまんざら馬鹿じゃねぇってことか」
メスブタって陛下のこと? あんたにそんなこと言われる筋合いない!
「掠奪してる時間は――」
「ねぇよ。命が大事ならすぐ船に戻れ」
残念そうな海賊たち。でも、シー・ガル号に特別な財産なんてない。価値があるとしたらパルウゥスたちだ。だからこいつらが下へ行けなくてあたしはほっとした。
「まあ、望む働きはしたんだ。褒美はもらえる。とりあえずはここから生き延びないとな。あの軍船の弾なんぞ当てられたらひとたまりもねぇぞ」
褒美……やっぱり払うのはアレクトールかな。
この時点でまだあたしは自分のことに考えが行かなかった。
「この娘はどうします?」
誰かがそんなことを言った。あたしがギクリとしたのが、あたしを捕らえている男には伝わったと思う。
船長は冷たい目をして、それから興味なさげに言った。
「好きにしろ」
耳もとでヒュゥ、と口笛が聞こえた。場違いな音だった。
そうして、それを最後にあたしは何も考えられなくなった。首に巻きついた腕があたしを締め上げたせいで意識は遠退いた――。