⑬異変
戦いは、多分もう始まってる。離れた地点の、それも船底にいるあたしにまで外のことが正確に伝わらないだけ。それでも、中へ戻って来る船員たちの張り詰めた空気がそれを感じさせるんだ。
あたしはパルウゥスたちのところで夜も一緒に休んだ。エセルはディオンよりもずっと指示が細かい。なるべく安全にと思うからこそだとは思う。それぞれの性格が出るよね。
食事の支度はマルロががんばってくれてる。他の人もマルロを手伝ってくれてて、あたしにはここにいろって言ってくれた。
――ディオンたちも大丈夫かな?
それから、二日目のことだった。
外がすごく騒がしかった。人の声ばっかりじゃない。大砲の音もして船が揺れた。
「っ!」
あたしは壁につかまってその揺れに耐えた。もともと壁際にいたから体をぶつけたりしなくて済んだ。パルウゥスのみんなも櫂を手に踏ん張ってる。
大砲の弾が海に落ちて起こした波が船を揺らしたのかも。
これって、それだけ敵船が接近してるってこと? ここ、陣形の後方じゃないの?
あたしは管を通してエセルに声をかけた。
「エセル、大丈夫!?」
でも、返事がなかった。もしかして、それどころじゃない?
あたしはその管に耳を当てて甲板の音を漏らさず聞こうとした。やっぱり、そこから聞こえるのは慌しい騒音だ。バタバタと走り回る音と、エセルの怒鳴り声がした。
「落ち着け! 後尾、体当たりにも警戒しろ!」
やっぱり、敵の船が近いんだ!
予期してなかった方向から敵船が来たのかも知れない。――敵の裏をかいて動くのは戦争なら当たり前だ。でも、そういう動きは読めなかったの? 船だもん。急に現れるわけじゃないよね。哨戒に出た船はどうして見逃したの?
わかんない。わかんないけど……。
ドクドク、と体中が心臓になったみたいに感じられる。体が震えるのは、怖いからだ。当たり前だよね。
「Τι γίνεται με την κατάσταση?」(状況はどうなっている?)
スタヒスがそう訊ねたから、あたしはハッとした。駄目だ、しっかりしなきゃ!
「Έξω είναι θορυβώδες.Ίσως στη μάχη」(外が騒がしいの。交戦中かも)
みんなを不安にはしたくないけど、あたしがちゃんと伝えなかったらみんなはもっと不安になる。あたししか言葉で伝えることができないからこそ、逆にごまかしちゃいけないと思った。
みんな、顔を見合わせて困惑してる。
そこでまた、ガンって船が揺れた。……ほんとに、上はどういう状況なんだろ?
「Είναι το τέλος Μόλις έρθει στο πλοίο.Απλώς θα ήθελα να αποφευχθεί」(船に乗り移られたらおしまいだ。それだけは避けたい)
誰かがそんなことを言った。年若いクロノスも悲しい顔をした。
ヴァイス・メーヴェ号の方にゼノンも乗ってる。あっちに火薬も優先して積んだ。シー・ガル号だって砲撃手はいないわけじゃないし、撃てなくはないけど、ゼノンほどの精度は期待できないのかも知れない。接近されたら、この船は戦えるのかな?
あたしは自分の荷物を置いてあるところまで這って行くとスカートの下にホルスターをつけ、拳銃をセットした。……絶対に必要ないとは言えない。念のためだ。
「Θα έρθω να δω το μικρό κατάστρωμα」(ちょっとだけ上を見て来る)
「Υπάρχει κίνδυνος」(危ないよ)
スタヒスは慌ててそう言ってくれた。でも、もし敵がこっちに乗り移って船底に来られたらおしまいだ。パルウゥスたちが捕まっちゃうかも知れない。
だから、ここで待ってるだけじゃ駄目だ。
「Σας ευχαριστούμε για τη φροντίδα για.Αλλά μόνο λίγο」(心配してくれてありがとう。でも少しだけ)
あたしはそう言って漕ぎ手座から離れた。
転ばないように気をつけつつ、急いで階段を抜けて甲板を目指す。階段の先に明るい光が見えた。
やっぱりその先には戦いの音が溢れてた。風が硝煙の臭いを運ぶ。――ここを越えれば、見たくないものが広がっているかも知れない。
怖いけど、行かないっていう選択はできない。あたしは覚悟を決めて光の中へ飛び込んだ。
眩んだ目が回復するよりも先に、強い風が後ろから吹いた。それは爆風だった。
「っ!」
大砲が近くの船に当たったんだ。あたしはとっさにその場で踏みとどまる。その爆風が落ち着いた時、目に飛び込んで来たのは荒らされた甲板だった。いつも綺麗に大事に扱って来た帆が、大砲の弾がかすめたのか焦げて、支柱の一角が折れてた。さっきの衝撃はこれかも。
戦いが繰り広げられたせいか、みんなが磨いて来た甲板は血の染みだらけ……。この血、誰のなの?
――呆けてる場合じゃない。
わあわあと白兵戦が繰り広げられてる。みんな自分たちの戦いで必死だ。
敵は軍服を着てない。これ、正規兵じゃないんだ。お金で雇われた傭兵?
もしかして、アレクトールに属する船じゃないから見落としたの?
なんて、そんなこと考えてる場合じゃない!
あたしは戦いの間をすり抜けて物陰に隠れながら操舵席の方を見遣った。そこに立ってたのは、知らない男。引き締まった長身に、身分とかは伺えない軽装――そこから察するに、海賊だ。茶色の癖のある髪が囲む顔立ちは整ってはいるものの、残忍に歪んでた。その手にはダガーが握られてる。
そんな男の足もとに、傷を負ったエセルがいた。