⑨嵐の後
「大丈夫かい?」
ファーガスさんがへたり込んだままのあたしに優しく手を差し伸べてくれた。あたしは、その手を借りてなんとか起き上がる。すると、ファーガスさんはあたしを気遣いながら苦笑した。
「陛下は概ね英明であらせられるけれど、時々感情的になるとディオンが言っていたことがあったな」
……公務の時は自分を殺してがんばってるのかも知れない。でも、いつだって聖人でなんかいられないよ。特に恋愛なんて絡んだ時にはね。
「……あのハワードさんって方は『女王の恋人』の一人ですか?」
整った容姿をしてたし、頭も良さそうだった。男性として魅力的だとは思う。
すると、ファーガスさんは苦笑した。
「いいや、彼は軍人だよ。国内屈指の名高い竜騎兵だ」
竜騎兵?
竜に跨る――いやいや、竜なんて架空の生き物だから。
イマイチ理解できていないあたしに気づいたのか、ファーガスさんは説明してくれた。
「竜騎兵というのは、銃器も扱う騎馬兵のことだよ。もともと遠縁の公爵家の人間で、陛下が即位される前からの昔なじみらしい。彼ほど優秀な人材はそうそういないからか陛下も無下にはできないのだろう」
穏やかそうな顔立ちだったけど、軍人なんだ?
陛下がちょっと抜け出そうとしてたところを見つかって、それでついて来られたってところかな。でも、いてくれて助かった。陛下だけだったら、あたし、どうしていいかわからなかった。
ぐ、とのどに感情の塊が込み上げる。
あたしは……。
うつむいたあたしに、ファーガスさんははっきりとした口調で言った。
「ミリザがここを去ればディオンが解放されるなんて考えないことだ。陛下はああ仰られたが、ディオンならしばらくすれば解放されるだろう。気にするんじゃない」
「でも……っ」
声が上ずった。そんな自分の声にびっくりして、それ以上何も言えなかった。
ファーガスさんは優しく、そっと続けた。
「行き場のないミリザが自分のせいで路頭に迷うようなことになったら、ディオンも責任を感じるだろう。そんな短絡的な選択はしないように」
うん、ディオンは優しいから気にすると思う。ゼノンやエセル、ヴェガスたちだって心配してくれるんだろうな。
それにね、はっきりとあたしをここに繋ぎ止める理由がある。それに思い当たったら少しだけ落ち着いた。
あたしにとってディオンと交わした約束は、陛下の命令よりも重いんだ。
「はい。あたしはディオンの許しもなしに去って行ったりしません。だって、それがエピストレ語を習う条件ですから」
それを聞いて、ファーガスさんはほっとしてくれたみたい。
「ああ、そういうことだ」
壁際で固まっていたマルロがそろそろとあたしたちのそばへやって来る。
「陛下って、ああいう方なんだな。びっくりした……」
なんて言いながらため息をついてる。
「そうだな、激しやすい部分がおありのようだが、それも熱が冷めれば冷静な判断を下して頂けるものと信じよう」
マルロはちらりとあたしを横目で見遣った。
何? 心配してくれてるの?
あたしは苦笑した。
「ディオンは困っただろうなぁ。だって、ディオンはあたしのことなんとも思ってないんだもん。はっきりそう言われたし。それなのに、周りの勝手な推量でややこしいことになっちゃってさ、いい迷惑だね、きっと」
ディオンなりにそれはちゃんと陛下に伝えたと思う。
でも、陛下は疑心暗鬼だったのかな。ディオンの言葉を信じなかった。
ディオンの心は誰のものでもないのにね。
そんな重たいこと言われても、マルロは返答できなかった。そりゃそうか、ごめんね。
「ええと、じゃあ洗濯物を干すのはしばらくマルロにお願いするね。あたしが甲板の上をうろうろするのはあんまりよくなさそうだし」
「ん、わかった」
と、マルロもそこは素直にうなずいた。
「さてと、じゃああたしは廊下の掃除でもして来ようかな。体を動かしてた方が楽だし」
野次馬の船員たちを押しのけ、あたしは掃除用具を置いてある下層へ下りて行った。
――二度とこの船には戻らないなんて、そんな選択はしない。
だけどさ、陛下の言葉が頭から離れないのは本当。
さあ、あたしはどうする?
ううん、どうしたい――?