⑱おかえり
それから六日、あたしはエピストレ語の復習だけは怠らず――でもすることがそんなになかったから領主館の厨房で働かせてもらってた。お皿洗ったり、芋の皮むいたり、船の上でしてるようなことならあたしもできるから。何もしないで待ってるのって疲れるんだもん。
ヴァイス・メーヴェ号の船影が見えたって伝令が通達に来た時、あたしはいても立ってもいられなくなって目に見えてそわそわしてたみたい。でも、ディオンの出迎えは奥様のお役目。あたしはここで芋の皮をむきつつ待つしかない。そう思ってたのに、奥様がわざわざ厨房まで迎えに来てくれたんだ。
「ミリザさん、行きますよ」
「え?」
「もうじき船が着きます」
それはわかってるんだけど……。
ためらったあたしに、奥様はクスリと綺麗に笑った。
「さあ、ディオンたちを迎えてあげて頂戴」
「あ、ありがとうございます!」
奥様もよそ者のあたしのことが気に入らないんだなって思う時期もあった。それも仕方ないって諦めてたけど、ちょっとでも認めてくれ始めたんだとしたらすごく嬉しい。
あたしは慌てて奥様の後を追った。
波止場に着くと、マルロとマリエラもいた。
マルロもすっかり元気だ。うん、マルロの姿が真っ先に見えたらみんな安心するよね。
あたしたちは波止場で飛び上がりながら大きく手を振った。船が近づくにつれて、あたしの心臓も張り裂けそうだった。だって、やっとディオンに会える。こんなに長く会えなかったことってない。
やっぱり、留守番は嫌。もう二度としないから。
跳ね橋が下ろされて、歓声の中をディオンが降りて来る。逆光になって表情まではわからないけど、真っ先に進み出た奥様と抱擁を交わすと、今度はマルロに目を止めた。
「無事でよかった。今後は気をつけろ」
素っ気ない言葉。でもその声を聞けてあたしは嬉しかった。
しょんぼりと項垂れてはい、と返事をしたマルロの頭にディオンの大きな手が乗る。あたしが期待を込めてディオンを見上げても、ディオンはあたしに目を向けなかった。……わざとだよね? くそう。
なんてことをしてると、いつの間にか降りて来てたエセルがあたしを抱きしめた。うわ、油断してた!
「ただいま、ミリザ」
「おかえり、エセル」
そんな言葉とは裏腹に、あたしはエセルを押しやった。
「つれないなぁ、久し振りなのに」
「いや、いつもこうでしょ」
なんてことをしてると、ゼノンがニコニコとエセルの背後に立った。あ、その笑顔怖い……。
「おかえり、ゼノン」
「うん、ただいま」
ディオンは色々と報告を受けてるのか、神父さんと喋ってる。マルロとマリエラも一緒だ。エセルは極力そっちに首を向けないようにしてるような……。
「あのヴァイオリン、マルロの次にあたしが憑かれちゃってさ、今回神父さんにはすごくお世話になっちゃった」
軽く言うと、エセルとゼノンの顔がすごく強張った。
「でも大丈夫。神父さんがついててくれたし」
なんて、せっせと神父さんの株を上げようと画策する。エセルはギュッと唇を噛み締めると、急にあたしの手を引いてディオンたちのところに向かった。
そうして、いつになく真剣な顔をして声を出す。
「なあ」
神父さんがビクッと肩を震わせて振り返った。そんな神父さんにエセルはにこりともしないで言った。……でもね、ちょっと緊張してるのが伝わる。
「ミリザが世話になったみたいだ。そのことに礼を言っとくよ」
お父さん嫌いなエセルが……。みんなが唖然としてた。エセルはバツが悪いのか、そのままあたしの手を引いて駆け出した。ちょっと、あたしまでつき合わさないでよ。
と思ったら、しっかりゼノンがついて来て三人で仲良く帰ることになった。いや、仲良くは……なかったかな。
☠
その日の晩、あたしはディオンの部屋の扉を叩いた。ディオンはあたしが来るって予測してたんだろうね。すぐに返答があった。
「入れ」
「はーい」
ニコニコとあたしが笑顔を振り撒いても、ディオンは仏頂面で椅子に腰かけてた。そんなディオンの正面に、あたしはずっと預かっていたセレーネライトのペンダントを置いた。
「これ、返すね。失くしたら困るし」
正直に言うと、途中からは持ってるのも忘れてたけど。
ディオンは長い指で石に触れると、ぽつりと言った。
「お前、自分からマルロの代わりになったらしいな」
「え、あ、そうだっけ?」
どうだったかなぁって曖昧な返答をしたら、ディオンに睨まれた。怒ってる?
「無茶をせずに待てと言ったよな?」
「そんなこと言ってる場合じゃなかったもん」
あたしは自分の判断が間違ってたとは思わない。手遅れにならなくてよかったじゃない。
「でもさ、あの霊ってあたしじゃ不満だったみたい。マルロみたいに体の自由を奪われたりはしなかったの。あたしでよかったんだよ」
音楽的素養がないからとか失礼なこと言われたけど。
すると、ディオンはますます呆れた目をした。そうして嘆息する。
「お前は馬鹿か」
失礼な。
「何よ、いきなり」
「お前が霊に抵抗できたのは、このセレーネライトの力だ。この石には魔に耐性があると言われているからな」
「へ?」
そうなの? それは知らなかった。
「それならどうして最初に教えてから貸してくれなかったの?」
そしたらさ、もっとスムーズにことが運んだ気がするんだけど。
「教えたらお前、無茶苦茶しただろうが」
「何それ、しないよ」
「どうだか」
あたしがムッとしてると、ディオンはまたため息をついた。
「まあ、この意思の効力に関しては確証がなかったのも事実だがな」
確かに、幻の石だもんね。期待を持たせて効果がありません、じゃ困るか。
そこであたしはちょっとだけ笑った。
「ディオンなりにあたしのことも心配してくれてたんだよね。ありがと」
「お前は何をするかわからないからな」
ちょっとそれどういう意味?
そこであたしは黙った。黙ってじっとディオンを見る。急に静かになったあたしをディオンは不気味だと思ったのか、ディオンもあたしを見た。
こうしてもう一度ディオンと再会できた。今はその喜びを噛み締めていたい。
「そうそう、言い忘れてた」
「……なんだ?」
と、ディオンは身構える。あたしは精一杯の笑顔で言った。
「お帰り、ディオン」
ディオンは一瞬、拍子抜けしたような顔になったけど、それからニヒルに笑った。
【 Ⅶ・失意と旋律と愚者火 ―了― 】
以上でⅦ終了です。
お付き合い頂きありがとうございました!