⑮才能
「マリエラ! 駄目、返して!」
あたしは疲れから体力が落ちてて、とっさに立ち上がれなかった。もたもたしていると、マリエラは優雅にヴァイオリンを構えた。その様子はすごく様になってる。マリエラは伏し目がちに言った。
「だってあなた、もう限界でしょう? あなたがしてくれたことですもの。私だってお返ししますわ」
「どうなるかわからないんだから、駄目だってば!」
あたしが壁に頼って立ちながら叫ぶと、マリエラはクスリと笑った。何その落ち着き……。
「私も小さな頃からマルロと一緒に母に習っていましたのよ。せっかくですからご披露しますわ」
サラサラの金髪をサッと揺らして、マリエラはヴァイオリンの弦に弓をあてがい、指を滑らせる。その手首の滑らかな動きに合わせ、澄んだ一音が流れた。
その音にあたしはハッとした。マリエラはゆるやかに、伸びやかに、まるで天上から降る幻の音みたいにヴァイオリンを奏でる。
緩急の切なく振れる旋律。何の迷いもなく、マリエラはまぶたを閉じてヴァイオリンと一体になったみたいだった。
……弾いているって表現が相応しくないくらいに自然で、まるでヴァイオリンは歌ってる。窓から漏れる光が、彼女のために用意されたみたいに感じられた。
マルロのヴァイオリンを初めて聴いた時、すっごく上手だと思った。あたしが全然楽器なんて扱えないから余計に、あんなことができるなんてマルロはすごいなって。
でも今、マリエラの音を聴いてあたしは自然と涙が零れた。技術とかそんなのわからないけど、マリエラの心が伝わる。マルロのこと家族のことあたしのこと、みんなを思い遣る優しい心。
なんだろう、上手く説明できないんだけど、胸の奥が熱くなるような締めつけられるような感覚がする。
――間違いなく、マリエラは天才なんだ。
音楽に疎いあたしでさえそれを感じた。
マルロが憑かれた時に掻き鳴らした不穏な響きはない。最初から最後までがマリエラの音だった。最後の音を滑らかに響かせ、少し息を切らしながら弓を掲げたマリエラ。その弓の先がゆっくりと下がって行く。
「マ、マリエラ?」
マルロの時の比じゃないくらいに取り憑かれてしまうかも知れない。そう思ってあたしはゾッとした。
でも、ヴァイオリンから顎を離したマリエラはふぅ、とため息をつく。
「思ったよりもいい音が出ますのね、これ」
何をのん気なこと言ってる!
「大丈夫なの!?」
あたしはヨロヨロと近づく。でも、マリエラはケロッとしていた。
「そうですわね。今のところなんともありませんわ」
あたしも最初は大丈夫だったし……これからかな?
そっとヴァイオリンに触れる。でも、何かが違った。
怨念の声も脈打つ鼓動もそこにはなくて、まるでこれじゃあただのヴァイオリンだ。
「あれ?」
あたしはマリエラからヴァイオリンをひったくる。でも、やっぱりなんともなかった。悪霊の思念が抜け落ちたみたいに、これはすでにただの物でしかないような……。
「何か変化がありましたの?」
マリエラが不審そうに首をかしげる。あたしはうーんと唸った。
「悪霊がどっか行っちゃったみたいな?」
「なんですの、それ」
いや、そんな顔をしかめられてもそうとしか思えないんだもん。
あたしたちは結局顔を見合わせると神父さんを叩き起こした。あの騒ぎと演奏の中で寝てたんだから、よっぽど疲れてたんだろうけど。
「……」
「どうですか?」
神父さんは疲れた目を擦りながら床に転がるヴァイオリンを凝視している。
「確かにもうあの禍々しさは感じられないけれど……」
やっぱり?
この悪霊はずっと濃い憎しみを抱いていた。それは才能に対する嫉妬だった。
思うような音が出せずに苦しむ日々を呪ってた。
マルロが奏でさせられていた音はまさにそれだった。でも、マリエラの演奏は恋焦がれた音そのものだったのかな? それを自分が奏でることができたような気持ちになれたのかも知れない。あんなになってまで渇望した音に巡り合えて、最後の最後で満足して逝ったの?
勝手だなぁ。
みんなを振り回して勝手だったけど、でも終わりよければすべてよしなのかな。
それにしてもつっかれたなぁ……。安心したら急に眠気が。
ねむ……眠い。いやでも、こんなところで寝ちゃ駄目。そうは思うのに、あたしのまぶたは瞬時に落ちた。コテ、と体が横たわった後、あたしがどうなったのかなんてあたしにはわからない。