⑭夜
神父さんはあたしの周りに石灰で何かの陣を書いてくれた。破邪の効果があるということなんだけど、正直に言ってあんまり変化はないかも。一応弁護しておくと、神父さんの腕が悪いんじゃなくてこの悪霊が執念深いんだと思う。
どくんどくん。
ヴァイオリンの脈打つような鼓動があたしを苛む。
気味悪いのに、あたしは睡魔に襲われて一瞬意識が飛んだ。でも、その一瞬が大変なことになった。
悪霊の声があたしの頭の中に流れて来た。
『おのれ――忌々しい**め。憎い。ああ、憎い。お前の体を寄越せ――』
あたしは思わず叫んでた。自分だけで消化することができなかった。
そんな声を上げたら神父さんが心配するってわかってても。
「ミリザ君!?」
焦った神父さんがあたしに手を伸ばした。でもあたしはとっさに神父さんに背を向ける。
「駄目! 神父さんが憑かれたらどうしようもないでしょ!」
神父さんは小さく唸ってた。そこから神父さんはずっと夜が明けるまで祈りの言葉を口にしてくれてた。
昨晩とは違って、あたしにはそれがすごく心強かった。だって、頭の中に時折流れ込む声は嫉妬と憎悪に満ちていて、そればかりを聞いていたら気が狂いそう。アリスが少し聞いただけでつらそうにしていたわけがわかった。
恨んでばかりいて、悲しい人生だったんだなって思う。でも、そんなの心ひとつで変えられたんじゃないのかなとも思う。損したのは確かだよ……。
ガレー船のヴァイス・メーヴェ号で王都までの道のりは約七日だって前に言ってた。普通に行ってそれだから、ぶっ飛ばして六日ってところ?
そろそろ王都に着くか着かないかって頃だよね。戻って来るのにまだ倍以上かかっちゃうのか……。
前に意地を張って寝なかったことがあるけど、あの時も三日目が限界だったな。今日は越せないかも――いやいや、がんばらなきゃ。
でも、ディオンたちが戻って来るまでまだまだかかる。そう考えるとあたしはちょっとだけ弱気になりそうだった。ぐすん。
ほんと、一人になってたら泣いてた。いつも誰かがいてくれたからあたしは空元気でなんとか自分を保ってたんだと思う。どうなろうとあたしが自分の決断で動いた結果なんだから、マルロの家族には責任を感じさせたくない。神父さんにも。
朝になって、あたしのご飯を持って来てくれたのはマリエラだった。丸っこくて可愛いバスケットを下げてる。マリエラもちょっと疲れて見えた。でも、そのままストンとあたしのそばに座り込む。
「マルロ、目を覚ましましたわ」
「ほんと!? よかった」
それ聞いたらほっとした。でも、マリエラはキュッと眉根を寄せる。
「あなた、ひどい顔してますわよ」
う。だってそりゃあ寝てないもん。
神父さんも結構フラフラ。思わずあたしは声をかけた。
「神父さん、休んで下さい」
「私がついてますわ」
マリエラは平然とそんなことを言う。この子もなんか肝が据わったなぁ。
「ほら、夜に備えて下さい」
そうでも言わないと休んでくれないから。
「……じゃあ、ここで休ませてもらうよ」
神父さんは帰らずに小屋の隅っこの壁にもたれかかって目を閉じた。離れないのは、あたしの状態が昨日よりも危ういからかも。何かあったらすぐに飛び起きられる場所にいてくれるみたい。
あたしはマリエラに苦笑してみせる。マリエラはバスケットからクルミの入ったパンと小瓶に詰まったサラダを取り出した。あたしが食べ難いと思ったのか、パンをちぎってはあたしの口に押しつける。……まあいいんだけど。あたしは無言で食べさせてもらった。
フォークで突っ込まれたサラダも酸味のあるドレッシングが美味しかった。
「ご馳走様。ありがと、マリエラ」
素直にお礼を言うと、マリエラは難しい顔をした。
「お礼なんて要りませんわ。あなたがしていることの方がよっぽど大変なんですもの」
こんな状態じゃさすがに突っかかっても来れないよね。素直なマリエラも可愛い。
「あたしなら大丈夫だから。ね?」
せめて少しでも安心させようと思ってマリエラに笑いかけた。でも、そんな時でもヴァイオリンから伝わる思念があたしの心に刺さる。
『憎い、憎い。ああ、どうして、どうして――』
ああ、もううるさいな。グチグチやめてよね……。
ぐ、と腕に力を込める。でも、それを抑え込むのは苦しくて、その異変をマリエラに気づかれてしまった。
「あなた、すごい汗ですわよ?」
とっさにポケットから取り出した可愛いハンカチであたしのおでこの汗を拭ってくれた。
そうして、マリエラはキュッとハンカチを握り締めるとそれを落とした。
あ、ごめん拾ってあげられない。あたしがそんなことを思った一瞬の隙に、マリエラはあたしの手から呪われたヴァイオリンを奪い取った。
「あ!!」
疲れてるあたしは容易にヴァイオリンと弓を奪われてしまう。マリエラはヴァイオリンを手に、穏やかににこりと笑った。