⑫神父さん
「どこか異変はないかい?」
神父さんが心配そうに訊ねてくれる。あたしはかぶりを振った。
「今のところは大丈夫ですよ」
そうかってつぶやいて、神父さんは胸を撫で下ろすとあたしの正面に座り込んだ。そこで懐から聖書だかなんだかを取り出してページを開く。そうしてブツブツと祈りの言葉をつぶやき出した。
……すいません、ありがたい呪文なんだと思うんですけど、ちょっと陰気。辺りも段々暗くなってるし、そういうの聞きながら一晩過ごすのは嫌だなぁ。
なので、あたしは思いきって言った。
「そういうのいいですから、普通にお話しましょうか」
「え……」
「だって、あたしが寝ちゃうとどうなるかわからないでしょ? 寝ないでいなきゃいけないわけですから、せめてお喋りで気を紛らわせてほしいです」
神父さんだってあたしの横でスヤスヤ眠るためにいるわけじゃないんでしょ? だったらそれくらいいいんじゃないかなって。
神父さんは苦笑した。
「豪胆なお嬢さんだね。さすがと言うか、何と言うか」
それ、褒めてる?
でも、そうやってクスクス笑ってる顔はエセルによく似てる。あたしはそんなことを思ってた。
似てるのに、仲が悪い。似てるから、なのかな?
「神父さんってエセルと仲がよくないんですよね?」
直球過ぎるあたしのひと言に、神父さんは一瞬怯んだ。でも、なんとか立ち直る。
「あいつにとって私はあまりよい父親ではなかったんだろう。あいつは君にも迷惑をかけているんだろうか? だとしたらすまないね」
……神父さん、やっぱりそう悪い人じゃないよね。
そう感じたからあたしはそっと言った。
「その分、たくさん助けられてもいますよ」
「そう言ってくれるとありがたいな」
と、神父さんは疲れたように笑った。
テルシェさんのこと、訊ねてみたい気持ちになった。本当はどう思ってるのって。
でも、それは他人のあたしが踏み込む問題じゃないんだ。だからそれはしちゃいけない。だって、あたしだって自分の家の事情に訳知り顔で誰かが口を挟んだら絶対に嫌だから。
ぐっと我慢したあたしに、神父さんはつぶやく。
「あいつはあいつなりに色々と悩んで、それで結論を出した。私はいつでもあいつが納得の行く言葉はかけてあげられなかったけれどね」
その言葉の節々には誠実な人柄が滲んでいる。あたしにはそう感じられた。
ねえ、テルシェさんのお母さんと神父さんの間にどういう会話がなされたのか、あたしには推測することしかできないんだけど、その別れは本当に二人で決めたことだったんじゃないかな。テルシェさんにも会いに来ないでって言われてしまったのかも知れない。
仲がこじれてしまった息子のエセルのことだってちゃんと心配してる。薄情な人じゃないよ。
エセルとテルシェさんが和解するためには、まずエセルがお父さんとちゃんと話し合って歩み寄ることから始めなきゃいけないのかも知れない。
「神父さんはいいお父さんですね」
あたしは自然とそんなことをつぶやいてた。
神父さんはびっくりしたみたいで目を瞬かせる。
「いや、私は少しも――」
そんな様子が可笑しかった。やっぱりいい人だよ。
エセル、いいお父さんだよ。うん、うちのと取り替えてあげたいくらい。
「エセルもそのうちわかってくれますよ、きっと」
それは、そうだといいなっていうあたしの願望かもだけど。
それでも神父さんは目尻に皺を寄せて笑った。
「君は不思議だね。君がそう言ってくれたら物事が上手く運ぶような気がするよ。そんな強い輝きを持つ君だから、悪霊も支配できないのかも知れないね」
さっきは音楽的素養がないとか言ったくせに。
あたしは少し笑った。
「ディオンたちが帰って来るまでの辛抱ですし、がんばります」
神父さんは軽くうなずくと、小屋の中にあったカンテラに火を灯してあたしのそばに置いてくれた。神父さんの姿もぽうっと照らし出される。
「これから夜が来る。『彼ら』にとっては力を発揮しやすい時間だ」
以前の幽霊船のことを思い出してあたしはぞくりとした。あれは気持ち悪かった。
「はい、気を引き締めます」
あたしはぎゅっとヴァイオリンを握る手に力を込めた。どくんどくん、と脈打つ。……怖いけど、大丈夫。だってディオンが帰って来る。だからあたしは待っていられるんだ。
そうして、夜はゆるやかに見えて急速に訪れるんだ。