⑨無音
あたしはもう一度小屋まで駆けた。今日はこんなことばっかりで疲れてないわけじゃないけど、そんなこと言ってられない。マルロはもっと苦しいんだから、あたしががんばらなきゃ。
ぜえぜえと息をしながら戻ると、神父さんとマリエラだけが変わらずそこにいた。一度お父さんが交代に来たらしいんだけど、マリエラはここにいるからって言って帰したらしい。お母さんのことがあるからどちらかしかいられないし、渋々お父さんは戻ったんだって。
お母さんを誰かに任せたらいいんだろうけど、お母さんが倒れた原因が悪霊に憑かれたからだって誤解してたら、やっぱりみんな怖くて近寄れないのかな。お母さんはただの心労なんだけどな……。
お父さん、マリエラのこともすごく心配だと思うんだけど、言い出したら聞かない娘だってわかってるのかもね。マリエラとマルロは双子だから、結びつきは普通の姉弟よりも強いのかも知れない。
あたしは頭を整理しながら口を開いた。
「アリスが……えっと、パルウゥスのアリスね、彼女が言ってたの。この悪霊の執念のもとは妬み――努力は虚しい。才能とはかくも残酷なものだって嘆いてるって。パルウゥスは敏感だから、あたしたちに聞こえないような声も聞こえちゃうんだ」
神父さんとマリエラは顔を見合わせた。
「あなた、本当にパルウゥスの言葉がわかるんですの?」
マリエラのリアクションは疑いというより驚きが強かった。あたしがエピストレ語を習っているのは知ってたけど、本気で習得できるとは思ってなかったのかな。
「このくらいならね」
って、あたしは苦笑した。
「これ、何かの取っ掛かりにならないかな?」
この悪霊が何を望んでいるのか。それを満たせばマルロは解放されるんじゃない? そうであってほしいと思う。
すると、神父さんはうぅんと唸った。
「その妄執を和らげることができれば、あるいは……」
やっぱりそうなんだ。
あたしはそう希望を持った。
「才能、か」
マリエラはぽつりとそうつぶやいた。
でも、そんな時、あれからほとんど鳴り止まなかったヴァイオリンの音がぴたりと止んだ。
「え……」
「なんで……?」
ぞくり、と背筋が寒くなる。マリエラも不安そうに肩を抱いた。神父さんはシャラリと腰のロザリオを手に取る。
あたしは小屋を見据え、強く唇を噛んだ。そうしていても音が再び鳴り響く気配はない。神父さんはあたしとマリエラを背に庇いながらぽつりと言った。
「もしかすると、マルロが精根尽きて悪霊も彼を動かすことができなく――」
「そんなことない! マルロは負けない!」
神父さんの言葉を遮ってあたしは叫んでた。
マルロが悪霊に打ち克ったのかも知れないじゃない。あの子、仕事がたくさん山積みで大変でも一生懸命それをこなしてた。嫌だって逃げたりしないでがんばってた。
そんなマルロだって知ってるから、あたしはマルロが負けたなんて思わない。
でも、マリエラはすごく震えてその場にへたり込む。いつもは勝気な彼女だけど、今は呆然自失だった。信じたくても不安は押し寄せて来る。足をすくませてしまう。その気持ちがわからないわけじゃない。
あたしはどくんどくんとうるさく鳴る心臓を押えた。ぐ、とブラウスの胸もとを握り締めると、服の下のセレーネライトが指に当たった。
――ディオン、今どの辺りなのかな?
まだ目的地に到着もできてないくらいなんだろうな。どんなに急いだって限界がある。
ねえ、ディオン、あたしに無茶をするなって、それ、無理な注文かも。
無茶しないと護れないものがあるなら、あたしは大人しく眺めてなんていられないんだ。
神父さんの背中をすり抜けてあたしは小屋に近づいた。
「今は駄目だ、下がりなさい!」
厳しい声が飛んだけど、あたしはそのまま扉に手をかけていた。
押しても引いても開かなくなっていた小屋の扉。でも――。
ギィィィと扉は開く。