⑧嘆きの旋律
あたしがアリスを伴って戻ると、座り込んだ神父さんのそばに頭を抱えたマリエラがいた。そりゃあ、頭も抱えたくなると思う。
お父さんはまだお母さんについてるみたいでここにはいない。
ふと思ったんだけどさ、島のみんなここに寄りつかないよね。時々様子を見にバースさんが来るくらい。こんなにもヴァイオリンを掻き鳴らしてるんだから、この異変は島のみんなに知れ渡ってるはず。
マルロは素直じゃないし毒も吐くけど、それでも根は優しい子。
――心配じゃないのかな?
「マリエラ、大丈夫?」
近づくと、マリエラは青い顔をあたしに向けた。少し目が潤んでる。
「うん……」
気疲れして頭が痛くなったのかも。無理もないよ。
神父さんは心底苦しげに呻いた。
「すまない。私にもう少し力があれば――」
そうか、みんながここへ近寄らないのは、マルロのことがどうでもいいからじゃない。悪霊が怖いからだ。
神父さんの力でも祓えない強い悪霊がいる。それを知ったら、ここへ足を向けることができない。家の中でマルロの無事を祈っているだけなんだ。
自分や家族の安全を優先することが悪いとは言わない。あたしだって、これがマルロじゃなかったらここまでしない。あっさり逃げてたかも。
「弱気になってる場合じゃないですよ。ほら、あたしたちがしっかりしなくちゃ!」
強がりを吐くあたしを、神父さんの疲れた顔が見上げた。
「そう……そうだね」
「そうですよ」
にこ、と笑って見せる。こんな時だからこそ笑っていなきゃ。
エセルのお父さんって、なんだろうね、ほんとに普通の人だ。いい意味でね。
テルシェさんとお母さんを捨てた非常な面を持つ人だって思ってたけど、そういう気がしなくなった。マルロのことも心配してくれてるし、情がないわけじゃない。
エセル、自分だけじゃ抱えきれない感情でお父さんのことちゃんと見えなくなってるかも知れない。もしかすると、しっかり話せば行き違った思いがあるのかも。なんてことを思った。
今はそういうことは後回しにしなくちゃだけど。
アリスは呆然と立ち尽くしていた。荒れ狂う嵐のようなヴァイオリンの音に頭の中が掻き乱されるみたいに感じられたのかも。
「Άρης,Είστε καλά?」(アリス、大丈夫?)
アリスの額にじんわりと汗が滲んでいた。血の気が失せたような顔色に、あたしはここへ連れて来ておきながら申し訳なくなった。
「Άρης?」(アリス?)
やっぱり、連れて来ちゃいけなかったのかな。
虚ろな目をあたしが覗き込むと、アリスはぽつりとつぶやいた。
「Επώδυνη」(苦しい)
「え?」
「Θλίψη」(悲しい)
それは、マルロを支配する悪霊の声?
「Ελπίδα δεν έγινε πραγματικότητα τίποτα.」(望みは何ひとつ叶わない)
この悪霊は何を願ったの?
アリスはブルブルと震えていた。
「Οι προσπάθειες μάταια.Ταλέντο είναι σκληρή」(努力は虚しい。才能とはかくも残酷なものだ)
そこでぷつりと糸が切れたみたいにアリスは崩れ落ちた。
「アリス!」
あたしはとっさに手を伸ばしてアリスを支えた。パルウゥスは小さく見えて重量があるからあたしもよろけたけど、なんとか踏みとどまる。アリスも意識を失うところまでは行かなかった。けど、すごく苦しそうだ。
「Λυπάμαι,Σας ευχαριστώ πολύ.Αρκετά」(ごめん、ありがとう。もう十分だから)
これ以上無理をさせちゃいけない。あたしはそう判断してアリスを小屋から避難させた。
「神父さん、マリエラ、後でちゃんと説明するから待ってて!」
あたしは二人にそれだけ言うと、アリスを先にパルウゥスの集落まで送り届けることにした。アリスは苦しげに荒く呼吸をしながら歩いてくれた。その道中でぽつりとつぶやく。
「Ισχυρή μίσος.Υποφέρουν από αυτό, θα ήταν οδυνηρό」(強い憎しみ。あんなものを抱えて、さぞ苦しかったことでしょう)
「Ναι」(うん)
その強い憎しみの正体は『嫉妬』なんだ。
あの言葉の節々からそれが滲んだ。
それを抱えたまま死んでも死にきれなかった。……悲しいね。
だからって、マルロを巻き込んだことは許さないけど。
嫉妬か――。
あたしも例えばディオンの心が誰かに明確に向いたら、その人に嫉妬する。
その感情は誰もが芽生える可能性のあるもの。対岸の火事なんかじゃないんだよね。
引きずるような足取りのアリスを連れてパルウゥスたちの集落に到着すると、アリスはここまででいいからがんばって、と弱々しく励ましてくれた。
「Κερδίζετε αν έχετε」(あなたなら勝てるから)
「Ναι,Εγώ δεν θα χάσουν」(うん、負けないよ)
そう、確かに誓った。