⑦清き心の耳
全力疾走あるのみ――だけど、これじゃあ目的地に着いてすぐに喋れない。
あたしは坂道を転がるように下りながらそれに気づいた。でも、足は速まるばかりだ。気持ちが急くから、後のことは着いてからでいいや。
あたしが目指すのはこのパハバロス島の中のパルウゥスたちの集落だ。ヴェガスたち男手は船を漕ぐために出払ってしまってる。でも、ヴェガスの奥さんのアリスたち女性陣は留守を守ってる。だから、彼女たちに頼めば、もしかすると何か教えてもらえるかも知れない。あたしはそう思ったんだ。
パルウゥスたちは膂力に優れるだけじゃない。栽培の難しい植物を繁殖させる知恵や、面白いカラクリを作ったり、そういうことにも長けてる。何か打開策があればいいんだけど。
はあはあ、と呼吸が整わないままあたしはそこへ辿り着いた。心臓が破れそうに軋む。
汗をダラダラ流したあたしは入り口の柵のところで開けてって大声で呼びかけた。
近くを通りかかったパルウゥスの奥さんがあたしに気づいて柵を内側から開けてくれた。
「Μίριο,Πώς το έκανες?」(ミリザ、どうしたの?)
「Λυπάμαι,Είμαι λίγο βιασύνη」(ごめん、ちょっと急いでるの)
見上げる瞳にあたしはそれだけを言うと、集落の中のヴェガスの家に向けて走った。
その小さな扉を手加減しながらノックした。
「Άρης,Παρακαλείστε να ανοίξει」(アリス、開けて)
少し待ったその間に急いで大きく呼吸を繰り返した。
汗を拭ってると、トトトと可愛い足音がして扉が開く。開けてくれたのはアリスじゃなくて、二人の娘のイクスィスだった。あたしが遊びに来てくれたと思ったみたいで、パッと顔を輝かせた。
「Μίριο, Καλώς ήρθατε」(ミリザ、いらっしゃい)
「Γεια,Ιχθύς」(こんにちは、イクスィス)
でも、あたしは彼女の頭を撫でただけ。遊んであげられなくてごめんね。
「Ω,Πώς το έκανες?」(あら、どうしたの?)
奥から出て来てくれたアリスは腕にイクスィスの弟のクリオスがいる。クリオスはアリスの三つ編みを引っ張りながら、ぽかんと口を開けてあたしを見ていた。
「Στην πραγματικότητα, αυτό έχει συμβεί σοβαρό πράγμα.Μπορεί να θέλετε να ζητήσει την Άρης」(実は大変なことが起きてて。アリスに頼みたいことがあるの)
あたしは正直にそう言った。息も荒くて血相を変えているあたしの様子から、アリスは穏やかな顔を引き締めてつぶやいた。
「Αν πω έτσι, θέλω να είναι μια δύναμη」(あなたがそう言うなら、力になりたい)
ヴェガスもあたしにすごく優しく接してくれる。その奥さんのアリスもヴェガスとよく似た空気を持つ穏やかな女性だ。だからあたしがこう頼んだら断らずにいてくれるって甘えがあった。
「Σας ευχαριστώ」(ありがとう)
呼吸を落ち着けながらあたしは語った。
あたしのエピストレ語はまだたどたどしいと思う。ディオンみたいに綺麗な発音じゃない。
でも、アリスは辛抱強くあたしの話を聞いてくれた。時折相槌を交えて。
最低限度の意思の疎通はできる今のあたしであってよかったなって思えた。やっぱり、あたしがエピストレ語を学ぼうと思った選択に間違いはなかったんだって。
「Εντάξει.Ας πάνε μαζί」(わかったわ。一緒に行きましょう)
アリスはいつもつぶらな瞳に強い光を灯してそう言ってくれた。あたしにはそれが何よりも心強かった。
イクスィスとクリオスだけを残しては行けないから、アリスは近くの家に子供たちのことを頼んでいた。
事情のよくわからない子供二人は困惑していて、あたしは申し訳ない気持ちになったけど、それを言っている間にもマルロは苦しんでいる。そう思ったら引けなかったんだ、ごめんね。
「Γιατί συμβαίνει αυτό」(一体何がそうさせるのかしら)
アリスは集落を出てすぐにそうつぶやいた。
わからない。わからないからそれを知りたい。
あたしも怖かったけど、アリスはもっと怖かったかも知れない。ヴェガスが帰って来たら改めて謝らなきゃと思う。奥さんに嫌なことさせてごめんねって。
「Ήμουν προβληματισμένος」(困ったね)
ぽつりとそう返して、あたしはアリスとマルロのいる小屋を目指した。ヴァイオリンの音が潮風に運ばれて耳に届く頃、アリスはキュッと唇を噛み締めた。