1
月のない夜が、再び巡ってきた。
ミシェルは窓辺に寄りかかり、見るでもなく、闇夜の世界を眺める。分厚い壁に穿たれたアーチの窓。その壁の厚みにすっぽりと包まれるようにして、膝を抱えて座っていた。
湖畔に佇む瀟洒な離宮。何代か前の国王が、殊更愛した愛妾に贈った城。王妃の悋気を畏れた彼は、この場所に彼女を隠したと言う。宝物を隠した秘密の隠れ家という訳だ。
そしてそのまま、世間に秘されること幾年。この場所はひっそりとその時を刻み、数多くの王家の秘密を知る事となる。
城を縁取る様に堀が巡り、蓮の花を一面にたたえている。時に侵入者から守り、時に牢獄に変える。凪いだ鏡のような水面。夜になれば、降り注ぐかのように逆さまに輝く星。時折揺らいでは、またはっきりと己が存在を示す。
天高く日が在れば、夜の静謐さとはまた異なる様相を見せる。生い茂る林檎の木々は白い花を咲かせ、やがてまん丸と赤い果実を実らせる。野草の様な小さな花々は四季折々に、気まぐれに、順序よく、その鮮やかな顔を覗かせる。秘密の園とでも言うべきか。
どこまでも可憐で、気まぐれな睡蓮の城。
しかしながら、今はただただ静かに。城はその時を刻んでいた。
どこか遠くで獣の声を聞いた気がした。ミシェルはそっと面を上げる。
側近くまで迫る深い森は、そんな気配を城の中まで伝えてくる。堀の上を、ゆっくりと水鳥が進み、かすかだが音を立てた。ひどくゆっくりと流れる時。この緩慢な刻の流れが愛おしいとは、露程も思えない。ミシェルはそんな風に思う。
闇夜は苦手だ。
ミシェルは窓の外から、その大きな空色の双眸を外す。そっと顔を伏せる。しゃらり、と長い金色の髪の毛が静かに肩を滑っていく。かすかに揺れる真っ白な夜着。しかし闇の中ではその動きは限りなく色を持たない。無を塗り込めた様な凝りが世界を覆い尽くす。不気味だ。
幼い頃に読んだ御伽話を、ミシェルはふと思い出す。その中に出てきた、美しくも哀しい漆黒の怪人のマント。彼はその中に自分の忘れたい思いを隠していたと言う。御伽話には珍しく、哀しい終わりを迎えるそのお話が、幼い頃からミシェルはとても苦手であった。
ミシェルにとっても、闇の中には、恐怖と、悲しい思いでしかなかったから。忘れたい思い。誰しもそんな思いの一つや二つはあるだろう。それをひっそりと抱えて生きている。無遠慮に踏み込んで良い場所ではないはずだ。
それなのに、
それを、
やすやすと。
無遠慮に踏み込んでくるその存在感。威圧感。もう、やめてほしい。
そう願ったところで世界はいつだって均等に時を刻んでいく。闇は平等に、規則正しく巡ってくるのだ。
そして何より、今は、それをなだめてくれる優しい手を失ってしまったから。
かけがえのない、温もりを。
数ヶ月前、夫とは離縁した。ミシェルは先日まで、この国の皇太子妃であったのだ。政略的なものであったし、成人を向かえていないミシェルだったから、清い、おままごとのようなものではあったけれど。幼い頃から、ずっと兄代わり、親代わりとして傍に居てくれたクロード。お互いの為だからと思い、選んだ別れがこれほど辛いものだとは想像もしなかった。
したくなかっただけかも、しれないけれど。今となってはわからない。ただただ、己の浅慮に後悔を重ねるだけだ。
さみしい。逢いたい。
今宵もまた、眠れない。
ここのところは、毎晩。長い時間、目蓋を落とそうと懸命に努力している。暗い闇の中では恐怖と寂しさに勝つ事は出来ないから。早く眠ってしまいたいといつも願う。だけれどそれはいつだって徒労に終わり、諦めて窓際に座り込む事になる。寝台の上でおとなしくしていたとしても、長い時間をかけて枕が涙で湿っていく。
ただそれだけ。
世界が白々とし始めた頃、ほんの少しうつらうつらして朝を迎える。気怠い体を引き摺るようにして、手水をし、言われるが侭に着替え、また一日が始まる。
王宮を辞したあの日から、幾度となくそんな日を過ごした。
泣き濡れた枕だけが、そんなミシェルの夜を知っていた。