⑦自称化学者とパティスリー(笑)
自称化学者、ウィリアム=ウインストンは現在失意の真っ只中にいた。
財閥の長である父の財産で、常夏の楽園の高級リゾートマンションに住み、ブランド品で身を固め、プラチナカラーの髪とアイスブルーの瞳を持つ、二十一歳の一応美形。中身が少々イタタな青年だが、こう並べ立ててみると恵まれている。贅沢な人間であることは間違いないが、彼は彼なりに悩んでいた。
勝手に化学に限界を感じたウィリアムは、魔術に手を出し、一人の悪魔を偶然に召喚した。
そして、その悪魔に恋をした。
認めたくなかったが、そうなのだ。その悪魔、アシュリが好きだと自覚した途端、こっぴどく拒絶され、彼女を残して家を出て来たのである。
しかも、自分が無下にしてしまった、親が決めた婚約者の女性に謝るため、追いかけて来たのに、謝った途端に彼女――ミシェルの平手打ちを食らった。
好きでもない、受け入れる気もない、そんな謝罪は自分のためだと。
そして、結局、いつも強いはずの彼女を泣かせてしまった。その上、言葉をかけられずにそのまま別れ、しょんぼりと肩を落としている。
手形を頬に付けたまま、結構長く肩を落としていた。近くに生えていたヤシの木に寄りかかり、ぼんやりとプライベートビーチを眺める。楽しげにはしゃぎまわるご婦人たちと野郎共の声がする。華やいだその光景が、妙に恨めしかった。
いつまでもそうしているわけにも行かず、ウィリアムはしぶしぶ重たい腰を上げた。
足を引きずるようにしてエレベーターに乗り、最上階のボタンをプッシュする。音もなく上昇を始めたエレベーターの中で、ウィリアムはガラスに映った情けない自分の顔を眺めていた。
ウィリアムが自宅に戻ると、白が基調の明るい室内が何故か薄暗く感じられた。アシュリの姿を探すと、対面キッチンのカウンターの前で何故か正座していた。物音に気付き、振り返る。
「ウィリー?」
笑顔はなかった。それに、テーブルの上のタルトタタンは手付かずで残っている。
「食べればいいって言ったのに」
ウィリアムも笑えなかった。強張った顔をしている自覚はある。
「独りで食べたって、おいしくないから、いや」
「アシュリ……」
「幸せな味を知ってるから、寂しく食べたくない。ウィリーがいなきゃいや」
そう言われると、ウィリアムは希望を持ってしまいそうになる。けれど多分、それは意味が違う。期待すれば、かえって自分が傷付くだけだ。振り切るように、ウィリアムはアシュリから顔を背けてカウンターの奥へ向かう。
「じゃあ、今から食べるか?」
「うん!」
それでも、やっぱり笑っていてほしい。馬鹿みたいにそう思ってしまった。
その翌日、アシュリは窓辺でポポ太と戯れていた。その様子は、普段とまるで変わりない。
ウィリアムがぼんやりとしながらビスキュイ生地のためのメレンゲを立てていると、アシュリは小さく声をもらした。
「あ」
ウィリアムは手を止めずに尋ねる。今手を止めたら、生地が死ぬ。
「どうした?」
すると、アシュリはシフォン生地のスカートを手で直して座り直した。ふわふわフリフリのかわいらしい姿は、悪魔というよりも妖精のようだった。
「あ、うん、明日、ママの誕生日だったなって。すっかり忘れてた」
その、他愛のない一言が、ウィリアムには冷水を浴びせられたような衝撃だった。
当たり前のこと。それを失念していた自分に、ウィリアムはとうとう気付いてしまった。
リズミカルに動いていた泡立て器が、ぴたりと止まる。
ウィリアムは苦々しさを声に出さないようにつぶやいた。
「そうだよな。お前にだって……家族がいるんだよな」
家族も、いるようでいない、一人ぼっちは自分だけ。
アシュリにはその声の色が読み取れたのかも知れない。小走りにウィリアムのもとへやって来る。何かを言うわけではなく、ただ心配そうにウィリアムを見上げていた。
お菓子が無事に焼き上がるか心配なだけだったらどうしよう、とウィリアムは苦笑すると手を再び動かし始めた。
よく冷やしたチョコレート風味のビスキュイとオレンジクリーム。トッピングシュガーを振り、オレンジピールとチョコレートで飾り付け。ショコラ・オランジュの出来上がり。――雑念だらけで、出来に納得が行っていないのは内緒だ。
目をキラキラとさせ、ショコラ・オランジュを眺めていたアシュリは、紅茶をいれて正面の席に着いたウィリアムを待つと、フォークを握った。
「いただきまーす!」
三時のおやつ。至福の時。
ウィリアムは嬉しそうに口を動かしながら、笑いかけるアシュリに微笑み返した。
そして、それを口にする。
「なあ、アシュリ」
「んん?」
「明日、帰れよ」
「ん?」
アシュリはフォークをくわえたまま、きょとんとウィリアムを見た。ウィリアムはテーブルの上に肘をつき、手を組む。紅茶の湯気が二人の間に立ち上っていた。
この時、ウィリアムはほんの少しの期待を込めていたのかも知れない。帰りたくないと言ってくれるのではないかと。
けれど、現実はむごかった。
「うん、じゃあ帰るね」
あっさりと、笑顔まで浮かべている。
さすがに、ウィリアムは泣きたくなったけれど、ここまで駄目だとわかったのはいっそ清々しいのか。
ただ、アシュリはようやく気付いた。彼女にとって、とても重要な問題に。
「ウィ、ウィリー、ポポ太は……ポポ太は連れて行っちゃ駄目なんだよね。ウィリーの家族だもんね」
その別れに対しては、涙を浮かべている。相変わらず、扱いがぬいぐるみ以下だ。最後まで勝てなかった。ポポ太より好きと言ってもらえる日は来なかった。
アシュリに抱えられたポポ太の、アシュリちゃんの好みは僕なんだ、僕に勝とうなんて図々しいよ、君は一人寂しくしてるのがお似合いだよ、という毒々しい幻聴が、ついにウィリアムにも聞こえた気がした。
「連れてけよ」
ケッと吐き捨てるように言った。シンシアもアシュリもいないのに、こんなぶっさいくなぬいぐるみに用はない。
それでもアシュリは、顔を輝かせた。
「え? いいの?」
それはそれは嬉しそうだ。心がやさぐれる。
ただ、そこでアシュリは若干の申し訳なさを感じたようだ。
「でも、そしたらウィリー、寂しくない?」
ぬいぐるみで寂しさを紛らわす二十一歳。考えただけでゾッとする。
絶対、いらない。
「あのな……」
あきれてため息をついた後、ウィリアムはぽつりとつぶやいた。
「寂しいって言ったら、どうするんだよ? ポポ太じゃ埋められないくらい、寂しいって言ったら」
行かないでくれるのかと。ずっとそばにいてくれるわけじゃないくせに、そんなことを言わないでほしい。
アシュリは途端に困った顔をした。だから結局、ウィリアムは席を立つ。
「冗談だ。……じゃあ、俺ももうひと仕事するかな。アシュリ、ちゃんと間に合うように準備しろよ」
「あ、うん」
そして、アシュリは最後の一口をぱくりと食べた。
ウィリアムは翌朝、とても早起きした。
自堕落なウィリアムにしては珍しいことである。なんのためかといえば、バースデーケーキを作成するためだ。
スポンジは昨日のうちに焼いておいた。苺と生クリームをサンドし、回転台をクルクルと回し、ケーキの壁を塗って行く。その上にクリームを絞り、ベリー類で飾り、アクセントにチャービル。
《HAPPY BIRTHDAY》の文字をチョコレートで書き込む。もしかすると、読めないかも知れないけれど。
レースペーパーの上にケーキを乗せ、箱を閉じる。そして、ピンクのリボンを十字にかけた。アシュリが起きて来るまでに間に合った。
アシュリは手荷物は何ひとつ持たずにここに来た。だから、帰りの荷物はポポ太だけだ。やって来たアシュリの服装は、出会った時のずるっずるのローブ姿である。
「じゃあ、ウィリー、帰るね」
「ん……」
曖昧に返事をすると、ウィリアムはテーブルの上のプレゼントを指さす。
「これ、持って行けよ」
「え? 何これ?」
「誕生日のお祝い」
そう、ぶっきらぼうに答える。そうしていないと、引き止めてしまいたくなる。最後なのに笑えないのは、仕方がないことだ。勘弁してほしい。
「いいか、絶対に傾けるな。後、あったかい場所に置くな。それから、家に帰るまで開けるな」
アシュリに口を挟ませないようにまくし立てる。それを聴いているのかいないのか、アシュリはほんのりと頬を染めて微笑んだ。正直、100点越えの笑顔だった。諦めの悪い心臓が、どきりと鳴る。
そんなウィリアムの腕をぐい、と引っ張り、アシュリは心からの感謝を示した。ウィリアムの頬に、ふわりと柔らかな唇が押し当てられ、そこからウィリアムの体は麻痺した。
呆然と立ち尽くすウィリアムをよそに、アシュリはプレゼントとポポ太を腕に抱え込んだ。
「ありがと、ウィリー。ママもきっと喜ぶと思う。じゃあね」
帰りは簡単。召喚の際に使用した魔法陣には、帰りの契約まで書き込まれているらしい。帰る意思があれば、すぐに帰れるそうだ。
だから、アシュリはポン、と小さな音を立てただけで煙のように消えてしまった。
呆気ないものだ。
もともと、退屈しのぎに描いた魔法陣から、予想外に飛び出して来ただけの彼女だ。本来、ここにいるべきではない存在なのだ。これからは、今までの日常に戻る。
ほっぽリ出していた化学と向き合う日々が、ウィリアムには正常なのだ。
わかってはいるのに、喪失感でいっぱいになる。
どうしたら埋められるのか。化学を駆使して考えたいと思った。
そして、ウィリアムは自分なりの答えを見付けることとなる。
ピピピ、と携帯端末を操作する。ものの五分で地下からブティック店員がやって来た。
「お呼びに預かり、ありがとうございます。本日はどのような――」
イチゴ柄のスーツに、何故か背中には天使のハネ。相変わらずイカれた格好のブティック店員は、言いかけた言葉を飲み込んだ。あんぐりと口を開けている。
ウィリアムはゆったりとソファーに腰を下ろした。そんな彼に、ブティック店員はおずおずと言う。
「本日は、お一人……ですか?」
今までが今までなだけに、うろたえるブティック店員。ウィリアムは苦笑する。
「そうだ。実は、俺、引っ越そうと思うんだ」
「は?」
「今まで世話になったな。ありがとう」
再びあんぐりと口を開けたブティック店員は、ようやく我に返った。いくら変態であろうと、上得意だ。それは困る。
「な、何故でしょう? どちらに?」
「ああ、そんなに遠くないところだ。店はこれからも利用するから、心配しなくていい」
その一言で、ブティック店員はほっとした。
「そうですか。ありがとうございます」
すると、ウィリアムは脚を組み直して笑った。
「それで、頼みがあるんだけど――」
それから、ウィリアムは化学と向き合った。化学が自分にもたらしてくれたものはなんなのか。
――そして、二ヶ月後。
ウィリアムは真っ白な白衣に袖を通す。けれどそれは、今までのものとは違っていた。厚手の生地のコックコート。ブラウンのタイとエプロン、頭にはコック帽。
パティスリー『ヘキサグラム』。
常夏の街角に、ひっそりと開店した洋菓子店。
急な工事だったが、小さな店でいいといって何とか完成してもらった。久し振りに会いに行った父は、もちろんいい顔をしなかったが、フラフラしていたウィリアムが真剣に打ち込もうとするものに、渋々ながら好きにしろと言った。
開店初日、一人ですべてを手がけるには限界があり、せっかく来店してくれた客に商品を提供することが出来なかった。完売ですと言うしかなかった悔しさを感じた自分に、ウィリアム自身も驚いた。
やっぱり、自分はずっと、これがしたかったのだと改めて思う。
ひとつふたつ作るのとはわけが違い、ホイッパーでは追い付かない。ミキサーボウルに大量の卵白をセットする。そうなると重量もあり、今までに重たいものなど持って来なかったウィリアムだから、出来上がる頃にはヘトヘトである。
化学者からパティシエへ。けれど、ウィリアムにとっては大差がない。
何故なら、お菓子は化学の結晶だからである。乳化、テンパリング、生地を分離させないタイミング、温度、どれをとっても化学とは切り離せない。その化学変化を操ってこそ、一流のパティシエである。
ウィリアムはロールケーキ生地を均等に伸ばして余熱済みのオーブンへ入れた。そこでようやくひと息つく。
自分の作ったお菓子を、どれもおいしそうだから迷う、と笑顔で選んでいる人々。おいしかったからまた来たと言ってくれるだけで、疲れも忘れた。
アシュリがいなくなった穴を埋めてくれるのは、そうしたものの存在だ。打ち込めるものが出来て、救われたのだと思う。
翌朝、眠気をこらえたウィリアムが店頭でケーキの品出しをしていると、疲れた目には痛々しいまでのどぎつい原色がケース越しに見えた。
「こんにちは。本日のおススメは?」
オレンジにブルーの襟のジャケット。緑のパンツ。何故か巨大なハイビスカス柄のネクタイ。赤いサングラス。ブティック店員はワニの形をした財布を片手に立っていた。
「ああ、いらっしゃい。ええと、デビルスケーキかな。これは甘さ控えめでほろ苦いものが一般的なんだけど、うちのは甘みがあるんだ。……悪魔風って名前で、苦い要素なんてひとつも連想できないから。隠し味は蜂蜜」
すると、ブティック店員はクスリと笑った。
「じゃあ、それをふたつ。それから、キャラメルシフォンをひとつ。――そのコックコートも板に付いて来ましたね。発注された時は、またなんのことやらと思いましたが」
「うん。まあ、まだまだこれからだけど」
「けれど、よい顔をされるようになりました。きっと、大丈夫ですよ」
その一言が、じぃん、とウィリアムの胸に響く。思わず、お代は結構ですと口走りたくなった。けれど、顔を上げた瞬間、あの原色に目を覚まされ、思い止まる。会計を済ませたブティック店員は、信号を渡った先でウィリアムのパティスリーを振り返った。
喫茶スペースもない、テイクアウト専門の小さなパティスリー『ヘキサグラム』。
その店名の通り、看板には六芒星が描かれている。何故、彼がその名とモチーフにこだわったのかはわからない。
けれどその時、看板に描かれた六芒星がキラキラと輝いた気がした。光の加減か、目の錯覚か。
ブティック店員は、見なかったことにした。
ウィリアムは店先でひとつ大きく伸びをした。今日も一日がんばろう。
すると、突然店先に輝くような笑顔があった。ケースの中の艶やかなケーキに目を奪われている、100点越えの美少女である。ハニーブロンドのふわふわの髪、金色の瞳、スタイルはいいのに、ずるっずるの陰気なローブ、手にはぶっさいくなぬいぐるみ。
「ア――」
思わずウィリアムは指をさしていた。けれど、アシュリは不思議そうに首をかしげる。
「ウィリー、その格好、どうしたの? 似合ってるけど」
そんなことはどうだっていい。
「なんで、いるんだよ? 帰ったんじゃなかったのか……」
声がかすれてしまった。なのに、アシュリは平然と言う。
「帰ったよ。ちょっと行ってすぐに戻って来るつもりだったのに、悪魔局に行ったら反省文いっぱい書かされたの。全然終わらなくて、ついでに辞表書いちゃった。なかなか戻れなくてごめんね?」
あっさりと見捨てて帰ったと思った。すぐに戻って来る予定だったと、なんで最初に言わない。ウィリアムは頭の中がミキサー状態だった。
「ママ、すっごく喜んでたよ。こんなにおいしいもの、食べたことないって。これ、お礼の手紙」
と、一枚の手紙を渡された。開けたが、解読不能な文字だった。
「読めない」
アシュリにつき返すと、アシュリが大声でそれを読んだ。
「ええと、ありがとう。娘をよろしく、だって」
唖然としたウィリアムに、アシュリは変わらない笑顔を向ける。
アシュリはすぐに帰るつもりだったのかも知れないが、ウィリアムは今生の別れだと思って送り出した。二度と目にすることが叶わない笑顔が目の前にある。それだけで、ウィリアムは涙がにじんだ。
「ウィリー、キャラメルシフォン食べたい」
相変わらずのアシュリに、ウィリアムは涙を見られないように隠しながら言う。
「それ、売り物だから。今までみたいにタダで食べられると思うなよ」
「えぇっ」
「食べたきゃ、働け」
「あ、うん。わかった」
「まずはその格好からだな。制服考えないとな」
「ね、ウィリアム」
「ん?」
「一個だけ、今、食べてもいい?」
「駄目」
「お願い。ポポ太もお願いしてるよ」
「知るか。キスのひとつでもするなら一個くらい、やっ――」
「じゃあ、もらうね」
「………っ」
そうして、自称未来の天才化学者は、他称スイーツの魔術師になりましたとさ。
【おしまい♪】
なんとか終わりました。
コメディっていいつつ、コメディ要素が後半に向けて薄れて行く一方でしたが(汗)。
アシュリが今後、ウィリアムを男性として意識するのかはウィリアム次第ですね。でも、今はポポ太と同じくらい好き、に昇格しているはずです(笑)
ちなみに、実家(魔界?)には簡単に行き来してます。
彼女は悪魔なので、ウィリアムの作るケーキの味そのものよりも、それに込められた気持ちをおいしいと感じているようです。喜んでもらいたいウィリアムの気持ちが、おいしいんですね。
デビルスケーキは、苦味のある、黒いチョコレートケーキのことですが、蜂蜜はあんまり使わないですね。ウィリアムが入れたのは、アシュリをイメージしてのことで、彼のオリジナルです。ウィリアムは女々しいですから……。
では、お付き合い頂き、ありがとうございました。