③エリート上司と常夏ビーチ(嫌)
自称化学者、ウィリアム=ウインストンが悪魔っ娘アシュリを召喚してから一ヶ月が経った。
アシュリは普通に食事をし、睡眠をとり、ウィリアムの好みの服を着せられ、お気に入りのぬいぐるみのポポ太とじゃれ合い、会話をする日々を送っていた。これといって、悪魔らしいことはしていない。
若干尖った耳を除けば、特に人間と変わりはないのだった。
こうしていると、本当に悪魔なのか疑わしくなった。
ウィリアムは暇にあかせて、高級リゾートマンションの居住空間でパソコンを駆使し、色々調べてみる。アシュリを召喚した魔法陣も、こうやって調べたのだった。
今にして思えば、あのサイトのゆるい顔をしたマスコットは、完璧にアシュリの趣味だ。
ウィリアムはキーボードをたったかたったか打ち鳴らしながら、調べ物を始める。
大体、悪魔とはなんなのか。人間の魂を欲していたように思うけれど、アシュリを見ていると、特にこれといって必要もない気がする。好物はオムライス。好きなお菓子はキャラメルシフォンと判明している。
そこではた、と気が付いた。調べるよりも訊けばいいのだ。
「……アシュリ、悪魔って、どうして人間の魂をほしがるんだ? 食べるのか?」
すると、アシュリはポポ太との会話をしぶしぶ切り上げてウィリアムの方に金色の瞳を向けた。
「下級悪魔のわたしは、上に献上するだけだもん。偉い大悪魔にならなきゃわかんない」
ウィリアムを獲物1号と呼んだアシュリは、つまり魂を献上したことすらないへっぽこ悪魔なのだ。
訊いた自分が悲しくなった。結局、ウィリアムは再びパソコンに向かう。
画面をスクロールし、それっぽい記述を探す。
すると、わかりやすい親切丁寧なサイトがあった。
【悪魔の不思議、教えます】と。
黒い画面に赤い文字。黒縁メガネを白い手袋が押し上げるような動きを繰り返している。
ここをクリック。
その途端、ぶわん、と嫌な音が耳に響き、ホログラムの画面がかき消され、蜃気楼でも発生したかのように空間が歪む。悪魔のくせに、アシュリはヒッと声を上げて、白い皮のソファーの後ろに隠れた。
パチパチ、と電気が弾けるような感じがして、歪んだ空間の隙間から、何か黒いものが流れ出して来る。ウィリアムの居住スペースも研究室も白が主体なので、なんとなく部屋が汚されたような気がした。
けれど、そのどろりとした黒色は、次第に形を整え、はっきりとした人型になった。
SPかと思うようなダークスーツをピシリと着こなし、黒髪に黒縁メガネ。メガネの奥の瞳はアメシストのような深い紫色だった。黒ずくめのせいで白い肌が際立って見える。
年齢は二十代半ばくらいか。ウィリアムに男を採点する趣味はないので、あえて言わないが、まあ美形と言って間違いはない。自分の方が上だけれど、とウィリアムはひそかに張り合う。
ただし、ウィリアムは天才化学者と言い張るイタタな大学生。こちらは、いかにもエリートといった風情の多分悪魔。
悪魔、そう考えて、ウィリアムはようやく危機感を覚えた。もしかして、また魂が抜かれそうな状況なのかと。
けれど、そのエリート悪魔はウィリアムに目もくれず、ソファーの後ろに隠れたアシュリのところに向かった。アシュリはびくぅっと肩を跳ね上げ、四つん這いになって逃げ出した。
けれど、アシュリはウィリアムの趣味でミニスカばかりはかされている。今日はフリルの付いたオレンジのキャミワンピ。その格好で四つん這いは駄目だろう、とウィリアムは思った。
アシュリもすぐそれに気付き、うわぁと叫んでその場にへたり込んだ。
その様子を、エリート悪魔はただじっと見ていた。
本当に、じっと見ていた。
時間が止まっているんじゃないかと思うくらい、見ていた。
あまりの視線のねばねばしさに、アシュリはポポ太を抱き締めてえぐえぐと泣いている。ポポ太と脳内会話をして現実逃避することもできないくらい、その視線は毒々しかった。顔は真顔なのに、じっとりと上から下まで眺め倒す。これなら、さらりと撫でられた方がまだ爽やかだ。
間違いなくセクハラだ。
そういえば、アシュリと初めて出会った時、彼女は指先さえも出ないような、ずるっずるのローブをセクハラ上司対策だと言って着込んでいた。今になって、なるほどと思う。思うが、こういうタイプは、ずるっずるのローブくらいなら、その上から勝手な妄想を働かせるだろう。
きっと、無意味だ。
けれど、今のアシュリの格好は、ウィリアムの趣味である。ウィリアムはあんなにも眺め倒さないけれど、似合うと思って着せている。さすがに、罪悪感があった。
あの男の視線を遮断できる服装といえば、最早着ぐるみくらいだろうが、ウィリアムは着ぐるみを連れて歩きたくはなかった。だから、心の中で、許せとアシュリに詫びた。
「アシュリ、魂ひとつの回収に、いつまでかかっている? しかも、なんだその格好は?」
エリート悪魔は、発言だけはまともで立派だった。まさか、あの粘着質な視線は無意識なのか。そう考えると、ウィリアムもゾッとした。アシュリはパニックに陥っている。
「あぅ、あ、その……む、無理でした!」
「無理? そのやる気のない発言はどうしたことだ? あの程度の仕事ができずに、お前は何をするつもりだ?」
発言はごもっともなのだが、視線は常にねちっこい。なんとかしてやりたいのは山々だが、ウィリアムはただの人間である。まず無理だ。がんばれ、と心の中で応援する。
「だ、だって、ウィリーはすごい人だったんです。魂を抜いたら、もうお菓子が作れません」
実は、家事ロボットにもキャラメルシフォンが作れるというのは秘密にしてある。
話の風向きがまずい。ウィリアムは血の気が失せた。あのエリート悪魔が、思い出さなくてもいいのに、ウィリアムの存在を思い出してしまった。紫色の瞳がウィリアムに向く。
「魔法陣、タイプβで契約されたウィリアム=ウインストンさんですね」
「ん、ああ……」
どうだったかな、と曖昧に返事をする。パソコンディスクの前の椅子から立ち上がらずにいると、エリート悪魔はウィリアムの方に数歩歩み寄った。仕草は優雅だが、すでに染み付いたイメージは変わらない。
「私はリッター=フォルカロル。アシュリの直属の上司です」
名刺を渡された。黒い紙に何か書かれているが、読めないので、すぐに机の上に置いた。
「ああ、初めまして……」
一応、挨拶する。幸い、リッターは男にはまるで興味を示さず、視線の粘っこさはなりを潜めた。
「部下の手際の悪さをまずお詫びします」
手際がよかったら、死んでるんですけど。と、ウィリアムは引きつった笑みを見せた。
そんなウィリアムに構わず、リッターは続ける。
「それで、いくつか確認したいことがあるのですが」
「確認したいこと?」
「ええ。まず……」
と、リッターは黒縁メガネを押し上げた。レンズがきらりと光る。
「アシュリの服装は、あなたの趣味ですか?」
ウィリアムは、ぐ、と言葉に詰まった。
「ええ、まあ……」
本当のことなので、ここは否定できない。ただ、真顔で訊かれると、すごく恥ずかしいことをしたような気分になった。
リッターは、なるほど、とうなずく。そして続けた。
「ここに来てから、アシュリはどこで就寝していますか?」
「え? 俺のベッドを使ってる」
普通に答えてから、ウィリアムはしまったと思った。リッターの頬がぴくりと動いたからだ。
慌てて弁解する。
「ちょ、ちょっと、誤解するなよ! 俺は研究室と寝室と、その他諸々、ベッドはたくさんあるんだ。一緒に寝てるって意味じゃない!」
「ああ、そうでしたか」
リッターの関心がウィリアムに向かった隙に、アシュリは隣の部屋に逃げた。そして、あのずるっずるのローブをキャミワンピの上に着込んで戻って来る。リッターはそれでもウィリアムから視線をそらさなかった。
「では、最後の質問です。スキンシップはどの程度まででしょうか?」
助けて、とウィリアムは神様に祈ったけれど、困った時だけ祈っても、助けてもらえなかった。
「スキンシップなんて……」
ポポ太の方がよっぽどすごい。毎日抱き締められ、頬ずりされ、一緒に寝てるんだから。
それに比べたら、ウィリアムなんて、ちょっと抱き付かれたくらいだ。
目に見えてウィリアムが困っているのを、アシュリはようやく助けようと思ったらしい。露出をなくして安心したのかも知れない。
「フォルカロル様、ウィリーは何も悪いことはしていません。苛めないで下さい」
ぱたぱたと走り寄り、アシュリはパソコンディスクの前に座っていたウィリアムをぎゅっと守るように抱き締めた。わざとやってないよな、とウィリアムは青くなる。
一瞬、リッターはアシュリの服装にがっかりしたようにため息をついた。それから、鋭い視線をウィリアムに向け、それからアシュリに向ける。
「アシュリ、男性に対してそういう態度はどうだろう」
「ウィリーは人間です」
アシュリ的には、種族が違うから、対象外だと言いたかったのかも知れない。そういう風に思ってたから、警戒心がまるでなくて、簡単に抱き付いたりするわけかと思った。なんとなく、おもしろくない事実が判明した。
「人間のオスだろうが」
イラッとしたリッターの声に、カウンターにあったグラスがパリンと破裂した。二人は同時にヒッと声を上げる。
リッターは感情を出してしまったことを恥ずかしそうに隠すと、ひとつ咳払いをした。
「まあいいでしょう。部下の不手際は上司が補うしかありません。ウィリアムさんの魂を貰い受けて帰るとしましょうか」
ここに来てようやく、本題に入られた。いっそ、本題なんて忘れてくれていたらよかったのに。
ウィリアムはまたしても訪れた命の危機に軽くパニックを起こした。
アシュリの時のように、ぬいぐるみやお菓子で釣ることはできない。いくらウィリアムが自称天才化学者といえど、この局面を乗り切るのは容易ではなかった。
「では、さようなら」
にやりと嫌な微笑をたたえたリッターの右手に、何故か水がするすると集まった。水は龍のようにうねり、部屋の中を駆け巡る。洗濯機に入ったら、きっとこんな感じだろう。なんて、のん気なことを考えている場合ではなかった。
「うわぁ、ちょっと、ちょっと待って!」
ウィリアムは思わず叫んだ。考えがあってのことではなかったけれど、リッターはとりあえず耳を傾けた。
「ちょっととは、どれくらいですか?」
「え、えっと、少し提案があるんだ」
「提案?」
リッターは首をかしげ、水を手の中にしまった。アシュリはすでに放心状態である。そんな彼女の腕を解き、ウィリアムは覚悟を決めた。またしても、一か八かだ。
恐る恐る、リッターに近付く。リッターは余裕の表情でウィリアムの接近を許した。
「なんですか? 手短にお願いしますよ。私は忙しい身なので」
ごくりと息を飲み、ウィリアムは言った。
「取引をしよう」
「は?」
ウィリアムはリッターの尖った耳に口を近付け、ごにょごにょと耳打ちした。リッターはしばし動きを止め、ウィリアムの顔を至近距離で覗き込む。嫌だけれど、目をそらしたら駄目だ。ウィリアムはまっすぐにリッターの紫の瞳を見つめ返す。
「……本当に?」
「命がかかってるんだ。嘘なんかつかない」
そう言い切ると、ウィリアムはポケットの通話端末に手を伸ばし、ピピピとプッシュする。ものの五分で地下からやって来たブティック店員は、何故かキノコ柄のスーツ姿だった。彼は至近距離で見つめ合う男二人を一瞥すると、見なかったことにした。
「本日は、どのような品をご所望でしょうか?」
「……こちらの男性に水着を。ああ、ここで合わせなくていいから、見たくもな……いや、あの、連れて行って着替えさせて、ビーチに送り出してくれ」
「かしこまりました」
リッターは首をかしげる。
「水着とはなんでしょうか?」
「それを着ていないと、あの場所では浮いてしまうんだ」
「なるほど」
適当なウィリアムの説明に、とりあえず納得したリッターは、ブティック店員に連れられて去って行った。ようやく一息つけ、ウィリアムはその場に崩れ落ちる。とりあえず、この場をやり過ごすことができた。
「ウィリー、大丈夫?」
アシュリがおろおろしながら近付いて来る。ウィリアムは彼女に目を向けた。
「ああ、あいつにもちゃんと弱みがあった」
リッターは男で、ぬいぐるみもお菓子も通用しない。では、何で釣るべきなのか。
そう考えて、はっとした。男だからこそ、抗えないものもある。
「ここがプライベートビーチを抱えるリゾートマンションで助かった」
つまり、リッターをプライベートビーチに招待したのだ。そこにはいつだって、水着姿のご婦人の一人二人……五十人くらいはいるはず。
あの粘着質な視線にさらされ、常夏のビーチにもかかわらず寒気を覚えているだろうが、ここは人助けと思って耐えてほしい。
アシュリはウィリアムが取った策の全容を知った。
「やっぱり、ウィリーはすごい。頭がいいね」
そんなことを言ってくれるのは、アシュリだけである。ウィリアムは自分でも言うけれど。
実を言うと、最終手段として、アシュリに水着を着せて差し出そうかと考えたのは内緒だ。
でも、とアシュリはぽつりと言う。
「フォルカロル様は水を操る大悪魔なの。ビーチって水辺よね?」
「…………」
その日、いつもは陽気なプライベートビーチに悲鳴が轟き渡ったのは、一体誰のせいだったのだろうか。
そして、すっかり気をよくしたリッターは、ウィリアムに友好的な笑顔と握手を残し、また来ると約束して去って行った。気付けばウィリアムは、悪魔に誘惑されるのではなく、悪魔を誘惑する技に長けてしまった。
化学とは、関係のないお話である。
リッターは、アシュリに特別な好意を持っているわけではありません。
職場に女っ気がないので、こうなってしまうだけです。
迷惑な話ですが。セクハラはいけません(笑)