①自称化学者と魔法陣(罠)
『科学そのものも悪魔とは親和性がある。科学は積み重ねによって当たり前には人間の手の届かないところまで手を届かせてしまい、ありえそうにない現象をも扱ってしまう。しかもそこに絶対的な善悪を論じない、あるいはその判断が科学そのものからは生まれない(Wikipedia)』
……らしいですよ。
それは、青い惑星での出来事。
青くて丸いそれは、この銀河の片隅に似たような星があるかも知れないけれど、それとはまた別の惑星。
滑らかな砂浜と地平線の見えるなだらかな美しい海洋。ヤシの木にさんご礁。
それの奥には、高層ビルが立ち並ぶ。南国の楽園と、都市の融合。
ア×リカのマイ×ミとでも言えばわかりやすいが、ここはあくまで別の惑星。
そのプライベートビーチを抱える高級リゾートマンションの最上階に、一人の男が住んでいた。
ウィリアム=ウインストン、二十一歳。
さらりとしたプラチナカラーの髪に、アイスブルーの瞳。すらりとした痩身に小作りの整った顔。
外見は、ロ×アンブルーのように優雅な青年だ。
某有名ブランドのシャツとパンツ、靴と靴下と時計とエトセトラ。
ようするに、お金持ちである。
ただ、そのブランド物が滑稽に見えるような白衣を羽織り、だだっ広いマンションを改築して作った研究室で、ホワイトボードにアホな落書きをしていた。
ようするに、暇なのである。
マーカーを片手に、急にその落書きをぐちゃぐちゃに塗りつぶす。インクの無駄使いだ。
「ああ! ぜんっぜん、降りて来ない!」
彼は未来の天才化学者。
ただし、自称。
いつか、何かしらをひらめく予定。
そう、自分では信じているが、傍目には白衣を着ただけのちょっと変わった人。
それでも、実家は財閥。遊んで暮らせるだけの金があり、そんな馬鹿なことを言えるのだった。
毎日毎日、同じことの繰り返し。
ウィリアムはそうして考えた。
これは化学の限界だ、と。
マーカーを放り投げ、ウィリアムはパソコンに向かう。
立ち上げると、ホログラムの画面がぽやんと浮かび上がった。
たったかたったかキーを打ち込み、ウィリアムはうなった。
化学の限界を感じてしまった以上、ここは正反対のものをに挑戦してみよう、と。
そうしたら、道が開けるような気がした。
ようするに、暇なのだ。
化学の相反するものといえば、魔術だろう。
魔術について書かれたページを探し出す。
あった。けれど、びっくりするくらい、曖昧な記述の魔法陣。
左手で描いたようなゆるい顔をした、猫だか豆腐だかわからないような生き物が、でかい鉛筆を持って魔法陣を説明している。
何が出てくるかわからないにゃー。失敗しても責任取れないにゃー。止めておいた方がいいにゃー。
やっぱり、猫だったか。
ウィリアムはううん、と0.2秒ほど考えて、それから放り投げたマーカーを拾った。キャップをぽん、と抜き取る。そのホワイトボードマーカーで、白く艶やかなタイルの床に歪みに歪んだ魔法陣を大きく書き始める。
六芒星に、ルーン文字とやら。これなら拭けば取れるし、という、床の汚れの心配はしても、自分の心配はまるでせずに下した決断だった。
「よし」
キャップを閉じ、マーカーを放り投げる。それからもう一度、パソコンの画面をチェックした。
魔法陣の中央に立ち、呪文を唱える。
「アイネ、クライネ、ナハトムジーク、アイネ、クライネ、ナハトムジーク」
すると、突然、締め切った研究室の中に風が巻き起こった。電気が消え、昼間だというのに、ウィリアムは暗闇に落とされた。そして、ぽ、ぽ、と魔法陣を囲むように紫色の火がともる。バースデーケーキのキャンドルを連想させるのは、ウィリアムが能天気だからだろう。
「成功? やっぱり、俺って何やらせても才能があるから」
自画自賛。いつもこんな感じだったりする、寂しい二十一歳。
魔法陣を紫色の火が一周すると、それは高く壁のように燃え盛り、そしてごうごうと音を立てて消えた。
部屋が再び明るくなり、上を見上げたウィリアムの上に、いるはずのないものが降って来た。
のどにひざがぶち当たり、げぇとウィリアムはうめいて後ろに倒れた。その上に正座する形で、突然現れた彼女はウィリアムの顔を覗き込む。
「やっと……やっと、これで一人前になれる」
顔の横でカールした、ハニーブロンドのふわふわの長い髪。金色の瞳。十代後半くらいだろうか。よく見ると、耳の先が少し尖っているような。
わかりやすく言うなら、85点。
つまり、かわいい方だ。
ただ、人間じゃないから-15点。後のマイナス要素は、服装だ。
悪魔っ娘だか魔女っ娘だか知らないが、こういうシチュエーションだったらまず、異常に胸の開いた服かミニスカだろう。
なのに、この娘は指先つま先さえも出ないようなずるっずるの黒いローブ姿だった。首から下は完全防備だ。
体型なんてわかりもしないし、おもしろくもなんともない。
角も翼も、確認できないが尻尾もない。すべてが中途半端だ。
ウィリアムはため息をついた。
「早くどけよ」
すると、彼女は指図されたことに驚いていた。
「え、口答え? 口答えするの? こういう場合って、どうするの? マニュアル置いて来たのに……」
とりあえず、ウィリアムは彼女の下から抜け出した。そして、ちょっと距離を保ってみる。
彼女は困った風だったが、すぐに気を取り直した。
「まあいいわ。じゃあ、獲物1号さん、さようなら」
にっこりとかわいく微笑み、彼女は不穏なことを言う。そして、ようやく出て来た指先から、変な光を放っていた。
ウィリアムはさすがにちょっとひるんだ。
「おい、獲物ってなんだ?」
「あら? 魔法陣に描いてあったじゃない。私は供物ですって」
「クモツ? 俺が?」
「そう。あなた、あの魔法陣はわたしたち悪魔の流した偽の魔法陣よ。何が出てくるかわからないとか、失敗するかもとか、やらない方がいいよとか、ネガティブワードを入れておくと、引っかかる人間が増えるのよね。やっちゃいけないと思うほど、人間ってやりたくなるのよ」
そこまで考えず、とりあえずやってみたウィリアムと、葛藤の末に好奇心に負けたやつ、どちらが馬鹿なのだろう。
「あんまり上質の魂じゃなさそうだけど、贅沢も言ってられないし、我慢しなきゃ」
すごく聞き捨てならないことを言う。ウィリアムはむっとした。
「容姿端麗で財産家の俺の魂が上質じゃないって、どういうことだ?」
すると、彼女は首をかしげた。
「魂に容姿と財産なんて関係ないし。あなた、ふやふやしてるわ。テキトーな生き様が魂に出てるわよ」
ウィリアムは情け容赦のない彼女の言葉に、誰も踏み込んだことのないところを踏み荒らされたような気分になった。ぎゃあぎゃあと反論していると、彼女はうっとうしそうに言った。
「まあいいって言ってるじゃない。それじゃあね」
彼女の指先が再び光る。
ウィリアムは文句を言っている場合ではないとようやく気付いた。壁際にさささと下がる。
ぴかっと光ったかと思うと、光が鞭のようにウィリアムに襲いかかる。とっさに避けた後、壁がえげつなくえぐれた。
「…………」
いくらなんでも、こんな死に方ってどうなんだろう。
低級悪魔の昇格の踏み台にされるほど、自分の命は安っぽいものなのか。
こんなことなら、もっと好き放題生きてやるんだった。
と、これ以上ないほどに好き勝手して来た男は思った。
そして、最初の一撃をかわしたことで彼女は機嫌を損ねて頬を膨らませていたが、気を取り直して第二撃を指先に集め出した。
「わー!」
ウィリアムは部屋の中をしゃかしゃかと走り回る。少々錯乱してしまっていた。
「ちょっと、落ち着いてよ」
冷静に突っ込みつつ、彼女は腕を振るった。光の鞭が、走り回るウィリアムの足首を絡め取る。ウィリアムは本棚に手を付いて倒れた。その反動で、棚の上の小物がばらばらと落ちて来た。
こんな時だというのに、その中のひとつに目が留まった。
どこからどう見てもぶっさいくなぬいぐるみだ。タヌキだかキツネだか宇宙人だかよくわからない。小型犬サイズのそれは、いわゆる元カノの置き土産である。
ぬいぐるみ作家を目指していた彼女は、オリジナルだと言って嬉しそうにそれを作った。ベタぼれだったあの頃は、シンシアはなんて才能に満ち溢れてるんだろうと思っていたが、去られてみると、明らかに不器用さが滲み出していると思う。
それでも捨てられなかったのは未練だ。最後の言葉が、
「ふざけんな、バーカ!」
とかだったりしても、どうせ死ぬのなら、もう一度だけ会いたいなと思ってしまう。
ウィリアムは手を伸ばし、そのぶっさいくなぬいぐるみを抱いて悪魔っ娘に向き直る。覚悟を決めたわけではなく、金で解決できないかな、とかこの段階で考えていただけだ。
「話せばわかる」
「しつこい」
段々と、距離を縮めて来る。そして、ウィリアムの足を捕らえていた光が消え、今度は鎌のようにウィリアムの首に向かう。
ああ、もうほんとに駄目なのかな、とウィリアムがぎゅっと目を閉じた時、彼女はぴたりと動きを止めた。しばしの沈黙。ウィリアムは恐る恐る目を開ける。
すると、彼女はうっとりと潤んだ瞳をウィリアムに向けていた。
正確には、ウィリアムのおなかの辺り。ぶっさいくなぬいぐるみに。
ウィリアムは思った。
女の子があの顔をする時がどういう時か、自分は知っている、と。
ペットショップでショーケースの中の、チワワとかトイプーとかの愛玩動物に運命を感じた時の顔だ。
ただし、それは一方通行の愛だ。向こうは普通に、うぜぇとか考えているだけだろうに。
つまり、彼女はこのぶっさいくなぬいぐるみに運命を感じている。
間違いない。
「これは、世界にひとつしかない代物だ。完全手作り。名前は……ポポ太」
「ポポ太……」
彼女はうわ言のようにその名を呼ぶ。金色の瞳がきらきらと輝き、頬が紅潮している。
ウィリアムは手を伸ばしかけた彼女からぬいぐるみを遠ざける。そして、その首を片手で締めた。
顔がゆるいだけに、何か無残だ。
彼女はああ、と急に泣き出しそうな顔をした。すでに情が移ったようだ。
「下がれ。下がらないと、首、ねじ切るぞ」
「ひ、ひどい……。あなたそれでも血が通ってるのっ?」
悪魔のくせに、そんなことを言う。
別にこいつの中身は綿なんだから、こっちの方がよっぽどひどいことになる。
それでも彼女には、たすけてよー、死んじゃうよー、という、ぬいぐるみの放つ幻聴が聞こえたはずだ。
がっくりとひざを付く。
「さすが、ふやふやの魂をした人間だわ。わたしが甘かった……」
形勢逆転。命拾いをした。
これはシンシアのお陰。そう言っても過言ではないかも知れない。
未練がまた、じんわりと胸にわくけれど、今はとりあえずこの悪魔をなんとかしなければ。
「俺に手を出そうとしたら、こいつは首と胴が離れることになるぞ。わかったな?」
彼女はうっすらと涙を浮かべ、こくりとうなずく。
「わかったわ。諦める。万年下っ端でも、新人に先を越されても耐えるから、それだけは止めて」
悪魔でも女子は女子。これがいかついおっさん悪魔でなくて助かった。
しかし、こうなってみると、これって悪魔を手懐けたことになるのではないかと、ウィリアムは思った。
「……三度回ってわん、とか言ってみろ」
悪魔はガン、とショックを受けた。けれど、ウィリアムがポポ太の首に力を込めると、泣く泣く三度回って、わんと鳴いた。屈辱で顔が赤い。
けれど、ウィリアムは悪魔以上に悪い顔をした。魔術の実験は成功だと。
「お前の名前は?」
「……アシュリ」
「そのずるずるローブは制服か?」
「ううん、セクハラ上司対策」
「スリーサイズは?」
「え? 何それ?」
すると、アシュリは首をかしげた。悪魔にはスリーサイズを測る習慣がないようだ。
ウィリアムはふむ、と納得した。
そして、通話端末をピピピと操作した。
それからものの五分。
マンションの地下からブティックの店員がやって来た。
「お呼びに預かり、ありがとうございます。本日は女性ものということで?」
ちょび髭に紫とピンクの縦じまのスーツ。人の見立てはできるくせに、自分の見立てはできないブティック店員。
ウィリアムの手のぬいぐるみを一瞥したが、お得意様が変態でも、金離れがいいので構わない。すぐに目をそらした。
「ああ。こいつに、こうこうこういう格好を」
ウィリアムは自分の趣味を最大に出したファッションを提案し、店員がそれに答える。持って来たドレッサーの中から選び取り、アシュリにあてがう。
「こんなところでございますか」
「よし。後、三十着ほど用意して届けてくれ」
「かしこまりました」
そうして店員が去った後、ウィリアムはアシュリに命令した。
「すぐに着替えるように」
「は?」
「こいつの綿を見たくなければ、着替えろ」
アシュリには、ポポ太がきゅう、と鳴きながら目を回したように見えたことだろう。
うるうるとした瞳でかぶりを振る。
「卑怯者!」
えぐえぐと泣きながら、ローブのすそをたくし上げる。
「いや、さすがに目の前で着替えろというほど鬼畜じゃないから」
隣の部屋を指差し、そちらに向かわせる。それでも、アシュリは恨みがましい目を止めなかったが。
そうして、戻って来たアシュリは、ウィリアムの趣味に染まっていた。
ノースリーブの白いフリル付きブラウス。赤と黒のチェックのプリーツミニスカート。黒のニーハイソックス。赤いベルトチョーカー。
怒ったようにむっとしながらウィリアムの前まで歩み寄ると、急にその場に座り込んだ。そして、またえぐえぐと泣き始める。
「何これ! こんな格好、セクハラ上司にばれたら写真とって部屋に飾られる! 露出反対!!」
率直に言って、92点。
人間じゃないから-15点。でも、意外と胸がでかくてスタイルがよかったので+10点。
自称化学者のウィリアムは、卑怯な方法で、役に立つかは微妙な低級悪魔を捕まえた。
ただし、そのツケはそのうちにやって来る。
呪文は、有名な曲名です。最初に聞いた時、長くて呪文のように思えたもので……。