13.
山根さんの不可思議な反応がよみがえる。
『本城君でしょ? 本に城。それか、广の庄で本庄かな?』
『いいえ。本に上で本上っす』
『えぇぇっ!?』
今なら山根さんの考えていたことがわかる。
『城』や『庄』には漢字としても意味としても『土』が含まれている。
でも『上』には土どころか自然物が……守人としての資質が一切含まれていない。
(山根さんがしきりに隼人を山から下ろしたがったり、大人しくしているように言ったりしたのは、これが理由……? だから……だから隼人は『アメノミ様』に『違う』と言われてあんな……)
ぞんざいに扱われた隼人を思い出すと、怒りに似た恐怖で体が震える。
この推論が正しいかはわからない。
でもさっきはさくらちゃんのおかげでどうにか命拾いしたようなものだ。
隼人が大人しくしていたところで何の意味もなくて――
『帰りも大層偉い御方が通るから、そのまま玄関で正座して待機してること』
そうだ、あの化け物が……祟り神・飴呑みがもう一度ここに来る。
その時、もしまだ隼人がいたら……?
その時、命の保証は……?
“隼人が喰われる”
頭の中にそう過って、僕は息を呑む。
全身の皮膚にザワザワと鳥肌が立っていく。
隼人が欠けた世界? そんなの僕にとっては真っ黒闇も同然だ。
僕だけじゃない。隼人は周りを照らす人だ。
これまでも、きっとこれからも。
だから――
「隼人! 隼人起きろ! 隼人!」
僕は喉が張り裂けんばかりに叫びながら、隼人の体を必死に揺さぶった。
隼人は逃がさなくちゃ。
アイツが戻ってくる前に、隼人だけは逃がさなくちゃダメだ!
隼人が喰い消されてしまったら……。
「隼人! 隼人!」
「……んっ……雪……?」
「隼人、起きて……ッ……頼む……起きて……ッ……」
そんなことになったらどうしよう、僕のせいだ。
たかが僕の思い出作りのために、嘘をついて隼人を連れてきた僕のせいだ。
隼人はここに連れてきちゃいけなかったんだ。
何としてでも隼人を逃がさなくちゃ……。
すると苦悶の表情で隼人が上体を起こす。
額にはうっすらと血が滲んでいた。
「なん……か……首痛ぇ……何だこれ……頭が……」
「隼人、ごめん……ッ……」
僕は俯いてギュッと唇を噛みしめる。
嘘なんてつかなければよかった。
『欲張って後悔したって知らないよ』
頭に過ったのは、あのお婆さんの言葉。
そうだ、欲張らずに、大学で一緒に過ごせるだけで満足すればよかったんだ。
視界はじわりと滲み、後悔ばかりが心を占めていく。
「雪が……どうして謝るんだ?」
「だって隼人が……怪我を……」
「これくらい平気だ。それより……異様に眠い……。雪は大丈夫か?」
「僕は平気」
「それならよかった」
隼人は僕の頭をガシガシと撫でて穏やかに笑う。
こんな時でも隼人は優しい。
だからこそ、とにかくこんな危険な場所から今すぐ隼人を逃がさなくちゃ。
「ごめん、説明は後でするから、隼人は山を下りて」
「……えっ」
「お願いだから、隼人は山を下りて。今すぐ」
「何言って……お前、また一人で何か――」
「頼むよ……ッ、早くして!」
泣き叫ぶ僕の手の甲に、ポタポタと涙が落ちると、隼人が僕の肩を優しく叩く。
「言っただろ。雪一人をここに置いては行けない。帰るなら雪も連れて一緒に帰る――」
「お前……今、それを連れて帰ると言ったか?」
突然、隼人の背後から背筋の凍るような重々しい声が響く。
途端に湿り気を増す辺りの空気。
隼人の影になっていて姿は見えないが……僕にはわかる。これはアメノミ様だ。
僕が声も出せずにカタカタ震えていると、後ろを振り返った隼人が首を傾げる。
「ん? あんた誰?」
「ほお、お前は見目がよいのう。子らが気に入る。どおれ、吾が使うてやろう」
「は? 何言っ――」
突如目の前に、ブラックホールみたいに真っ黒で巨大な口が広がり、バクリと喰い付かれた隼人の声が途切れる。
一瞬だけ隼人の足先が宙でバタついているのが見え、それはあっという間に口の中に吸い込まれていった。
クチャ、ピチャ、ゴクッ。
粘り気のある生々しい音が、頭の芯に刻み込まれる。
「……隼……人……?」
今、何が起きた?
腰を抜かして呆然とする僕の眼前に、痩せ細った人間の男性の姿をしたアメノミ様が近づく。
「そなたは余所者であろう? だが薫るのう」
そう言ってアメノミ様は、辺り一帯の空気を吸い込まんばかりに鼻から息を激しく吸い込む。
「おお、よい薫りじゃ。特別にそなたを守人として認めてやろうぞ」
「――ッ……!」
アメノミ様に掴まれた左腕に、突如鋭い痛みが走る。
恐る恐る目をやると『隸』という文字が焼き付けられているのが見える。
(何だ……これ……)
「土は吾の友じゃ。朽ちていく吾を、いつ何時も支えておったのは土の種族だからのう」
ニィッと不自然なほどに口角を上げたその顔が気味悪くて、僕は声も出せずにカタカタと震える。
「あの異物め、吾から土を奪おうとしておった。友を守った吾に報謝せよ」
ハッハッハ、と笑ってスゥッと姿を消すアメノミ様。
すると玄関先の灯籠の明かりが一つ消えた。
……今、何が起きた?
視線を落とすと、床にスマホがぽつりと落ちていた。
シリコンカバーには、隼人と僕が好きな、ヴェルテクスG3号機が見える。
隼人のスマホだ。
「隼……人……?」
今……何が起きた?
「隼人……?」
何が、起きた?
「隼人……隼人? 隼人!?」
呼んでも返事はなく、姿も見えない現実に、僕の体から血の気がサーッと引いていく。
肺が凍り付くように冷たくて、僕はただひたすら荒い呼吸を繰り返す。
まさか……僕のせいで隼人が喰われ――
「ちっ、違う! まだだ……まだだ!」
歯を食いしばり、今にも頽れそうな足を踏みしめて立ち上がる。
「待って……嫌だ……待ってよ……返して……ッ、返してよ!」
足が縺れても、転んでも、アメノミ様を追うために玄関の外に飛び出す。
「返して……返せよ! 隼人を返せ-!」
外に向かって半狂乱でそう叫んだ瞬間、よろけた僕の足に何かがぶつかって辺りが陰る。
足元を見ると、灯籠が倒れてローソクの火が消えていた。
「お前」
今の声――
「隼――ッ!」
隼人の声に、跳ねるように顔を上げる。
でもその瞬間、僕は息を詰めた。
目の前に見える隼人の顔。
ただ、気味が悪いほどに無表情で不自然に目だけが見開かれ、見たことのない隼人の表情だった。
「隼……人?」
震える声で名前を呼ぶと、隼人が口を開く。
「お前、火を消したな?」
「……えっ?」
「ローソクは、吾との友の証なのだろう? それを消したのか?」
吾。
隼人は自分のことをそんなふうには言わない。
「隼人を……返して……」
「何だと?」
「隼人を……ッ……」
すると、遠くから子どもたちの歌声が聞こえてくる。
「ローソク出ーせー、出ーせーよ。出ーさーないと、かっちゃくぞ」
歌声が酷く耳につく。
頭の中に直接声をぶち込まれているみたいだ。
「うるさい……あんたじゃない! 隼人を返……し……ッ、返せ……!」
涙の滲んだ情けない目で、僕はアメノミ様を鋭く見据える。
裏返った声は、惨めなほどに震えていた。
するとまた子どもたちの歌声が頭の中に響く。
「ローソク出ーせー、出ーせーよ。出ーさーないと、かっちゃくぞ。おーまーけーに――」
『喰い付くぞ』――耳元でそんなおぞましい声が聞こえた気がして、僕は肩を窄めて耳を塞ぐ。
暗闇の中、子どもたちの無邪気な歌声と笑い声が辺りに反響する。
「喰い付くぞ、喰い付くぞ、喰い付くぞ、喰い付くぞ!」
「うっ、うるさい……ッ、返せ……隼人を返せー!」
そう叫んだ瞬間、僕は息を詰めた。
隼人の顔のアメノミ様が、不気味なほどに口角を吊り上げ、舌舐めずりしたのだ。
「なんと、土は吾を友とは思ってくれぬのだな。悲しや悲しや」
少しも悲しくなさそうなその顔は、まもなく目から、鼻から、口から、ヘドロが湧き上がるように黒い液体が溢れ出し、その形を歪に変えていく。
顔は巨大化し、肌は暗闇に溶けるような鈍色に。
目は蛙のように離れ、歯は獰猛な獣のように鋭く尖る。
最早人間らしさのかけらもないその気味の悪い姿に、僕は細かな呼吸を頻繁に繰り返して自らを保つ。
冷え切っていく体は、痙攣するようにガタガタと震えていた。
それでも隼人を返してほしい気持ちが、僕の口から震える叫びとなって溢れ出した。
「か、返せよ! 大切な……人なんだ……返してよ……ッ、隼人を返せ!」
アメノミ様の白装束の腹部をギュッと掴んで揺さぶると、不意に僕の手に震える手が重なる。
温かな手だった。
そしてその手は、僕の手を引き剥がすようにそっと追いやる。
人への気遣いと温かさに溢れる君をずっと見てきた。
だからわかる。
「隼……人……?」
きっと、これは隼人の熱だ。
優しい君は、きっと苦しみながら抗っている。
僕だけでも救おうと、逃げろと……そうだろう?
「隼人……ッ……」
「吾を欺く者は要らぬ」
でもそんな隼人の気概をへし折るように、僕の目の前には、ブラックホールみたいに真っ黒で巨大な口が広がった。
その背後には天の川が輝く満天の星空。
僕の足は、地面に張り付いたように動かなかった。
「ぼ、僕は、た、ただ君と――ッ……ごめん……僕が、嘘……を……」
僕は、君とここで共に過ごし、君とこの星空を見たかった。
この星空の下で、君に僕の気持ちの一部を……ただ「ありがとう」とだけ伝えたかった。
そして離れていても僕のことを忘れないでほしいと、密かに七夕の星空へ願いを込めたかった。
そんな願いが、欲が、隼人をこんな目に遭わせたんだ。
「隼人……ごめん……ッ、ごめんね……ごめん……ッ……」
僕のせいだ。
隼人を身勝手に巻き込んだ僕のせい。
じわりと滲む星空は、幻のようにどんどん霞んでいく。
一等星の輝きが、徐々にぼやけていく。
そうだ……これはきっと、自分の欲を満たしたいがために、誰よりも優しい君に嘘をついた、僕への報いだ。
勝手に君への想いを募らせ、君を危険へと晒した僕の罪。
君を救えず、今も君を苦しめている僕の罪。
そんな罪深い僕が最期にできるのは、君を少しでも楽にすることだけだ。
僕は精一杯の笑みを浮かべ、君の頬へと震える手を伸ばす。
「だ、大丈夫……ッ、怖くなんてないよ。君が……ッ、気に病むことは何もない。悪いのは、全部僕……なんだ……」
君は誰よりも輝く一等星。
僕を照らす眩しい光。
君の顔が皺だらけになろうが、白髪だらけになろうが、腰が曲がろうが、君が君である限り、どんな姿になろうとも、僕のこの気持ちは変わらない。
だからどうか、情けなく声が震える僕を許してほしい。
「ぼっ、僕は……ッ……君のことが――」
どんな君でも僕は――
次回、最終話となります。




