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赤い月とふたりの舟 ~嫌いなあなたと不思議な国~  作者: 五十鈴 りく


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7✤黒い獣

 さすがに歯の根が合わない。強がりも言えず、ロドリックの腕の中で震えてしまった。

 これでは馬鹿にされても仕方がない。それでもどうにか、嫌味を言われる前に自分から離れた。


 けれどこの時、獣の唸り声が聞こえた。

 とっさにロドリックは私の前に腕を広げ、意外にも庇うような仕草を見せる。


「あ……」


 タッ、と土を踏みしめる音と共に現れた、四つ足の獣が赤い口を開けている。

 犬というにはかなり大きい。狼なのだろうか。全身が硬そうな暗灰色の毛に覆われている。亀裂のように開いた口から長い舌が零れ、唾液が滴り落ちた。


 そして――ゆっくりと舌なめずりする。

 赤い星さながらに光る目が私たちを見据えていた。


「美味そうな餌を見つけたって顔だな」


 軽口を叩くけれど、ロドリックの声は固かった。


「あなたは美味しくないと思うわ。食べたらお腹を壊すに決まってる」


 恐怖をごまかすために私も軽口で返したものの、震えはひどくなるばかりだった。

 ロドリックは獣から目を逸らさず、私を気にしながらジリジリと下がった。


「俺じゃなくてお前が目当てだろ。お前の兄貴ならまだしも、俺なんて硬いだけだ」

「こんな時まで兄様を侮辱しないと気が済まないのっ?」

「お前こそ、こんな時までいちいち反抗するなよ」


 不満そうに言うけれど、ロドリックは自分が逃げるために私を獣の前に突き出すことはしなかった。さすがにそこまで性根が腐りきってはいなかったらしい。


 そして、ホルスターから拳銃を抜いた。それを構えつつ、私の方を見ずに言った。


「背を向けて走る獲物を追いかけるのが獣の習性だ。背を向けずに少しずつ離れろ。こけたら終わりだと思って慎重に行け」

「……あなたはどうするの?」

「あれを仕留める」

「嘘でしょ? できるわけないじゃない」


 その拳銃に何発の弾が込められているのかはわからないが、あの大きな獣がそう簡単に倒れるようには思えなかった。


「できなくてもやるしかない」


 そんなやり取りの間も、獣はグルグルと唸っていた。痺れを切らしたように、苛立たしげに前脚で地面を叩く。


「とにかく下がってろ」

「でもっ」

「うるさい。……もう言わないからな。巻き添え食っても後で恨むなよ」


 足手まといだと、その態度が語っている。私が下らなければ邪魔にしかならないから。

 私は少しずつ、ドレスの裾を持ち上げて後ずさる。やっぱり獣の狙いは私なのか、獣は私に目を向けていた。


 そこでロドリックの銃が発砲音を立てた。それでも獣は俊敏だった。跳躍する獣をロドリックは立て続けに撃つ。


 銃声だけが森の中に響き、銃弾は逸れたのか獣は呻きひとつ漏らさなかった。当たらなかったと思ったのに、よく見るとそうではなかったらしい。


 獣の片目が潰れている。星の輝きがひとつ減った。

 それでも、獣は怪我を物ともせずに地面を蹴る。


 ドンッ、と確かに獣の腹を撃ち抜く音がした。それなのに、獣は怯まない。銃撃の反動から体制を整え直し、また少しずつロドリックを追い詰めるように間合いを取る。


 ――おかしい。

 あんなに撃たれて、それでも血が流れていない。

 あれは獣ではなく、獣の姿をした()()だ。


 見ていることしかできなかった。

 後退するのも忘れ、立ち尽くしてしまう。


 ロドリックは拳銃を構えていた腕を下ろした。

 その仕草でわかる。弾が尽きたのだ。


 もう、どうすることもできない。ロドリックが仕留められた後、私も食べられるのかもしれない。


 逃げきれるとは思えなかった。

 恐ろしいけれど、恐ろしすぎるせいか、かえって何も考えられなくなる。


 けれど、まだロドリックは諦めていないらしい。先ほどの遺体のそばに駆け寄り、落ちていた剣を拾ったのだ。

 だからといって、得体の知れない獣にあんなものが通用するとは思えなかった。ロドリックが獣に食いつかれる姿を想像し、脚が震えた。


 私は――。

 怖いのは当然だ。こんな目に遭ったのは初めてなのだから。


 それでも、だからといって何もしないで怯えているだけでは死んでも死にきれない。


 縮みあがった心臓に喝を入れ、周囲を見回した。

 何もないけれど、石くらいは落ちている。

 投げられそうな小さな石をいくつか拾い、ロドリックに狙いを定めている獣に向かって当たれと祈りながら投げつけた。


 ただの石だ。それでも、ロドリックに飛びかかりかけた獣の注意が一瞬削がれた。

 ただの石のつもりだったけれど、獣にぶつかる際に熱した石炭のような赤みを帯びて見えたのは気のせいだろうか。それによって獣は犬のような情けない声を上げたが――余計に怒らせただけかもしれない。


 しかも、その怒りは私に向いた。

 目は私に狙いを定めたようだ。


「あ……」


 夢中でやってしまったけれど、まずかったかもしれない。

 ロドリックよりも私の方が先に獣の腹に収まることにことになりそうだ。


 射竦められて後ずさろうとした途端に自分の踵とつま先がぶつかって転んでしまった。

 もう駄目かもしれないと思った瞬間、ロドリックが鋭く長い剣を振りかぶり、獣の首を目がけて斬りつけた。


 剣先が肉に食い込み、獣の動きが鈍る。そして痛みからか、口を大きく開けて唸った獣の喉にロドリックは力任せに剣を突き入れる。

 彼の腕ごと獣の喉に飲み込まれたように見えるほど、剣は深く刺さっていた。


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