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赤い月とふたりの舟 ~嫌いなあなたと不思議な国~  作者: 五十鈴 りく


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5✤ポツリと

「――おい!」


 声をかけられ、私は重たいまぶたを持ち上げた。

 冷たい石畳の上に倒れている。それに気づいてゆっくりと上半身を起こした。


 倒れている私の上に上着がかけられていて、それがハラリと落ちた。ほんのりとぬくもりが残っている。


 この燕尾の上着が私を起こした声の主のものであると認めたくはなかったけれど、目の前にいるロドリックがリンネルのシャツにベストといった格好で上着を着ていないのだから無理だった。


 さすがに倒れている相手に冷淡な態度は取れなかったということか。さすがに目の前で死なれたら後味が悪いだろう。


「私、倒れていたの? ……上着をありがとう」


 上着を差し出すとロドリックは受け取ったが、眉間に皺を寄せていた。


「ついでに言うと、俺もさっきまで倒れていた。お前より先に起きただけだ」

「何、それ?」


 なんの冗談だろうと思ったけれど、ふと肌が異変を感じた。

 何がというと上手く説明できない。

 音楽が聞こえないからだろうか。噴水の水が止まっているから?


 ざわ、ざわ、と夜風が騒いでいる。

 一番うるさいはずの人の声がしない。


 どうにか立ち上がる。

 ロドリックが上着を羽織った。肩にホルスターで装着した拳銃が見える。

 護身のためにだ。別に珍しくはない。

 ロドリックの射撃の腕前は見事だと誰かが言っていた。


 私をここに残して屋敷へ行くかと思えば、ロドリックはそこにいたままだった。彼も異変を感じているのだろうか。


 ふと、空を見上げて私は目を見張った。

 しんと静まり返ったその夜、空に浮かぶ月は――赤かった。


「赤い、月……」


 私が愕然としてつぶやくと、その言葉をロドリックが拾った。


「確かに赤いな。珍しい」


 ロドリックは私たちが読んだ絵本を読まなかったのかもしれない。あの色に心を乱された様子はなかった。

 私だけがその不吉さに震えていたけれど、意味は伝わらない。


「寒いのか?」


 目を眇めてそんなことを言う。

 この男が私に気遣いらしきものを見せるのは珍しいのに、今日はその珍しいことが起こっている。これも赤い月のせいだろうか。


 寒いと答えたら、また上着を差し出すつもりか。

 けれど私はこれ以上ロドリックに借りを作りたくない。


「いいえ。……もう戻るわ。兄様が心配しているかもしれないし」


 これを言ったら、ロドリックがため息をついた。

 もう嫌味は言わなかったけれど、どうせろくなことを考えてはいないのだろう。


 私が背を向けると、まだ声をかけてきた。


「体におかしなところはないか?」


 さっき倒れたから。

 紳士として振る舞うためには建前でも訊いておくらしい。


「お気遣い、どうもありがとう」


 彼に体を向けることなく、軽く振り向いて言っておいた。

 少しも心が籠っていないと思っただろう。けれどそれはお互い様だ。




 私が屋敷へ戻る時、ロドリックが一緒についてこなかったのは、周囲の下手な勘繰りが煩わしかったからだろう。

 犬猿の仲である私と一緒にいるだけで面白おかしく騒ぎ立てられそうだから。


 ――それにしても、音楽がまったく聞こえない。

 楽師たちの小休止にしても長すぎる。ずっと聞こえてこないままだ。夜会は終わってしまったのかと訝りたくなる。


 そう、本当に終わってしまったと言えたのかもしれない。

 ホールには人っ子一人いなかったのだから。


「どうして……」


 私の家族までいない。

 それどころか、この屋敷は売り払われた後のように何もなかった。テーブルも椅子もグラスも軽食も、慌ててどの部屋を回っても家財道具すらろくに見つからない。


 ゾッと身を震わせていると、私の後ろからロドリックがやってきた。

 その険しい表情から、彼も何も知らないのだとわかる。


「なんだこれ……」


 私とロドリックはそろって倒れていたという。

 だとしても、それほど時間は経っていないはずだ。全員をここから消し、家具まで運ぶような暇はなかった。


「どうして誰もいないの?」

「そんなの、俺が知るかよ」

「私だって知らないわよ!」


 思わずきつく返してしまったけれど、ここで喧嘩をしている場合ではない。

 それはロドリックにもわかったはずだ。にこりともせずに言う。


「とにかく屋敷の部屋を全部調べる。使用人くらいいるかもしれない」

「わかったわ。手分けして探しましょう」


 普段はどうあれ、今くらいは協力すべきだろう。感情の波を抑えつつ精いっぱい冷静に答えてみせたけれど、ロドリックは首を振った。


「何が起こったのかもわからない以上、別行動はしない方がいい。ついてこい」

「私に指図しないで」


 ロドリックの言うことは間違っていないのに、頭で考える前に口が動いてしまう。そんな自分を止められない。

 彼は怒るかと思えば――実際には怒っていたのだと思うけれど、顔をしかめて私の手首を取った。


 触らないでと言いたくなった。体が、心が、どうしてもこの人を拒絶してしまう。

 それを察知できないほどロドリックは鈍くもなかったのだろう。


「誰か見つけたらすぐにでも放してやる。いくらお前でも何かあればさすがに寝覚めが悪い。今は大人しくしてろ」

「――っ」


 本当に危ないのは、不審者がいた時に戦えもしない私の方だ。

 けれど、ロドリックが私を守って戦うとは思わない。一緒にいる理由はあるだろうか。


 それでも、腕を振り払えない以上は仕方がなく、従うしかなかった。


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