4✤異変
外へ出ると、風が少し冷たく感じられた。
宵闇の中、剥き出しの肩を摩っていると、子爵が私の手に手を重ねた。
「さあ、こちらで落ち着いて話しましょう」
「は、はい」
夜の庭では屋敷から流れてくる音楽よりも噴水の水音の方が大きく聞こえた。
誰もいない。
ただ薄暗くて、うるさい。こんなところで落ち着いて話せる気もしない。
大体、ほとんど初対面なのに何を話すことがあるというのだ。
話自体は少しも重要ではなくて、二人きりになりたかっただけだとしたら――。
何か心臓がドッ、ドッ、とうるさく主張する。
体温が下がっていくような心地の悪さだった。
子爵の手が私の腕の上を撫でるように滑る。
それから急に抱きしめられた。きつい香水の匂いがする。
「や、やめてくださいっ!」
父様と同じくらいの年齢とはいえ男性だ。それなりに力が強い。息が詰まりそうだった。
「私の妻になってください」
そう言えば、金に困っている令嬢は飛びつくと思っているのだろうか。
もしくは、断れないと承知の上でだったら最低だ。
「あなたの家族のことも、私の家族として大事にしますよ」
嘘だ。さっき兄様に取った態度が全部物語っている。
この人は、好きにできる若い娘がほしいだけだ。
嫌悪感で吐き気がした。それなのに、振りほどくには力が足りない。
――これが現実か。
急に襲ってきた虚無感に負けそうになった。
どうせ現実は変えられない。諦めた方が楽だ。
救いなんて期待してはいけない。
それでも、もし願いが叶うのなら、どこかへ逃げてしまいたい。
弱気になると、またあのふわふわとした酩酊感がした。
今日は熱でもあるのだろうか。何かがおかしい。
それもあって体に力が入らなかったのに、何故だか不意に子爵の腕が解けて視界が広がった。
「嫌がっている女性に無理強いするのは紳士のすることではないでしょう?」
まさかと思ったけれど、その声はロドリックだった。
彼の声で思考力が戻り、しっかりと自分の足で立てた。
まぶたを開いて声の主を確認するけれど、間違いない。
整った顔に冷たい表情を浮かべたロドリックがそこにいる。
子爵はここに誰もいないと思っていたらしく、その不意打ちに焦っていた。焦るのなら、疚しいと感じる程度の人の心はあったのだろう。
「わ、私がいつ無理強いをしたというんだ? この女の方が誘ってきたんだぞっ。不愉快だっ」
保身のために喚き散らし、子爵はその場から逃げた。
その足音が遠ざかる。静寂を妨げる噴水の音には感謝したくなった。この水音がなければ、小さく漏れた嗚咽が聞こえてしまっただろうから。
私が誘ったと、ロドリックはあんな言葉を信じて私を貶めるのだろうか。だとしたら助けてくれなくてもよかった。
助けてくれてありがとうと、それくらいは言うべきかもしれない。
あれこれ考えていると、ロドリックは私の顔を見るなり吐き捨てた。
「なんだ、お前だったのか。それなら放っておいてもよかったな」
――顔が見えなかったから助けに入ったのか。
私だとわかれば助けてやる義理はなかったのに損をしたとばかりに。
涙をグッと堪え、ロドリックを睨みつけた。そうしていないと何もかもが嫌で泣き崩れてしまいそうだった。
そんな私に、ロドリックは目を細めてつぶやく。
「言っておくが、ここまで来たお前も悪い。俺にはそういう目を向けられる筋合いはない」
「……そうね。ありがとう」
ありがとうと言いながら、憎しみを込める。この取り澄ました顔が心底憎らしかった。
そう、この男は私のことが嫌いなのだと随分前から知っている。
昔、本当にまだ子供だった頃、ロドリックが私をどう思っていたのかを知ることになったのだ。
『あいつは可愛げがなくて、わがままで、いいのは見た目だけ。あいつにはあんまり近づかない方がいいぞ』
彼に対して特別何かしたわけでもないのに、ロドリックは友人相手に私をそう評した。
そんなふうに言われるような扱いを彼にした覚えもないのに。仲良くしているつもりだったのに。
通りかかったところで飛び込んできた言葉に少なからず傷ついた私は、彼と関わることをやめた。
ロドリックは内心を隠し、私と当り障りなくつき合っていくつもりをしていたようだが、私の方が願い下げだった。
それは彼が成長し、身分という当人たちにはどうしようもないしがらみがあることに気づいてしまったからこその発言だったのかもしれない。
けれどそれは私のせいではないと思ってくれなかった彼の狭量を嫌った。
――本当のところはわからない。ロドリックなりに単に私に我慢ならないことがあっただけで、身分や立場といったことは関係なかったのかもしれない。
だとしても、私はもう解決するつもりもなく、距離を置くことで終わらせようとした。
仲が良かったはずの彼に陰で言われた言葉は、自分でも信じられないくらいに痛かったのだ。泣きながら目覚めた日にそれを認めた。
だから、彼のことが嫌いになったのは仕方のないことだ。
ロドリックは悪態をつくのをやめ、私に背を向けた。
互いに関わり合っても不愉快なだけだと理解している。
私は、自分で制御できない涙をごまかすために空を仰いだ。
そこには青く丸い月が宝石のようにして煌めいている。
今日は満月だった。冴え渡る美しい月が、この感情を浄化してくれないものだろうか。
そんな感傷的な気分になった瞬間、目がちかちかした。
まるで火花が飛び散ったような、細かな光が月の周りを飛んで、月が二重に見える。
「あれ……?」
目がおかしい。
けれど、おかしかったのは目だけではなかった。
頭が、体がグラグラと揺れ、立っているのかすらよくわからない。
すぐに何も考えられなくなった――。




