29✤エメラン
「ああ、エメラン! こんなところにいらしたのね!」
喜色満面でやってきたのに、ロドリックと私の繋がれた手を見た途端に彼女は一瞬だけ冷ややかな目をした。
「あなたは誰にでも優しいから、女性にはすぐに勘違いされるのよ。わかっていて?」
私もロドリックも状況が呑み込めずにきょとんと立ち止まっているだけだった。すると、その女性はロドリックの腕に自らの腕を絡ませて私から引き離した。
「……あの、あなたはどなたでしょうか?」
戸惑いつつも急に振り払うようなことはしない。ロドリックは精いっぱい紳士的に問いかけていた。
それでも、彼女は見る見るうちに目を潤ませた。
「まあ! 私を覚えていないの? あなたのレクシーよ」
「あなたの?」
ロドリックがとぼけていないことくらい、私にもわかる。この世界に知人はいないのだから。
レクシーと名乗った彼女は目尻の涙を拭きながら言った。
「大怪我をした後だもの。多少のことは仕方がないわね。さあ、戻りましょう」
「いや、その、人違いだと思いますよ? 僕の名はロドリックといいます。エメランではありませんから」
丁寧に言って聞かせるが、レクシー嬢はついに泣き出してしまった。
「ああ、可哀想なエメラン……。でも、もう大丈夫。婚約者の私がついているわ」
「ええと……」
私にもさっぱりわけがわからないけれど、どうやらロドリックはこのレクシー嬢の婚約者と間違われているらしい。
似たような顔をしているのだろうか。本物はどこへ行ったやら。
ロドリックは泣いているレクシー嬢を押し退けられないようだ。困って私の方をチラチラと見ている。助けてほしいというのだろうか。
事実、このままでは動けない。
「あの、少し落ち着いて。話を聞いていただけますか?」
そっと、ロドリックは彼女に言葉をかける。その声は本当に労りに満ちて聞こえた。
そういうふうに対応できるから、ロドリックは社交場の女性たちに人気があったのだろうと改めて思う。
レクシー嬢は潤んだ瞳をロドリックに向けたまま、彼の頬に手を添えた。大きな赤い宝石が指に光っている。
「ええ、もちろんよ。エメラン」
それでもロドリックは根気よく言って聞かせようとしたのかもしれない。
それが、レクシー嬢の目を見た途端にヒュッと息を吞んだ。私と繋がっているロドリックの手が震えているのがわかった。
そして、手を振り払われたのは私の方だった。
唖然とするよりない。
「ロ――っ」
名を呼ばれたくないとでも言いたげに、ロドリックはもう私を見なかった。
レクシー嬢はほっとしたようにうなずく。
「帰りましょう、エメラン。たくさん語り合いましょうね」
ロドリックはこくりとうなずき、私の存在を忘れたようにレクシー嬢と馬車に乗り込もうとする。
思いもよらない展開にしばらく呆けてしまったけれど、ようやく我に返った。そして、その場から一歩踏み出す。
「あの……っ」
けれど、レクシー嬢は私を一瞥しただけで、ロドリックに至っては背を向けたままだった。二人を乗せた馬車は砂埃を立てて走り去っていく。
狼狽える心臓の音がすべての喧騒をも聞こえなくさせた。
突如降りかかった事態にどうしていいのかもわからず、言葉も出ない。
――楽しい音楽は、もう始まらなかった。




