26✤ルナティック
「ルナティックが来ちゃったかも!」
サディアスがそんなことを言った。
「ルナティックって……?」
尋ねながらも、ベリスたちの会話をぼんやりと思い出した。その名称を聞いたのは初めてではない。
サディアスはそれが何かを知っているのだ。うんうんとうなずいている。
「月の精にもいろいろとあってね。ぼくたちみたいに善良な子と、悪い子がいるわけ。悪い子は魔法使いに従わない。月の魔力を貪って、挙句に暴走しちゃったの。魔物って言えば伝わるのかな? ぼくたちは狂気って呼んでる」
「月の精が狂うとどうなるの?」
「はっきりとした目的なんてないんだけど、暴れるから。人間を襲ったりもするよ」
月の魔力を貪ったと。
強すぎる力は害になるということだろうか。
この時、私たちの前に黒い獣が躍り出た。私は悲鳴を上げかけ、ロドリックの表情も強張っている。
「あれ……っ」
私たちがこの世界に来たすぐに森で遭遇した獣だ。
あの時よりもさらに大きいかもしれない。狼に似た漆黒の姿――。
「……今回は武器がないな」
ロドリックが苦々しくつぶやく。
それでも、サディアスは落ち着いていた。
「ぼくがいるよ! この優秀なぼくが」
自分で言われると不安になる。
いや、でも、他に頼れるものはない。
「……サディアス、どうしたらいいの?」
グルグルと唸り、今にも飛びかかりそうな獣だ。
すぐに襲ってこないところを見ると、向こうも私たちを警戒しているのかもしれない。
「えっと。このまま逃げるか、戦うか、どうする?」
「戦えるの?」
「ミシェルがね」
私が。
前回の戦いでは石を投げただけの私だけれど。
どうしようかと焦っていると、ロドリックが私の肩を抱いた。
「駄目だ。逃げよう!」
私も逃げたいのだけれど、逃げ切れるものなのだろうか。
「放っておいて人里を襲ったりしない?」
「するんじゃない?」
サディアスはあはっ、と笑って答えた。笑えない。
「じゃあ駄目。戦う」
「ミシェル!」
咎めるような鋭い声が飛ぶ。ロドリックが私の心配をしているのはわかるけれど、害があると聞いて放置するのは無理だ。
「どうしたらいいの?」
不意にサディアスは可愛らしい顔に似合わないニヒルな笑みを浮かべた。
「魔物は朝日みたいな強い光が苦手なんだ。あと、内側に魔力を貯め込んでいるから、それが漏れると霧散しちゃうの。燃やすか貫くかこんがり焼くかのどれかだね」
とても嫌な表現で教えてくれた。
あの森でロドリックに貫かれた獣が灰になって散ったのは、魔力が漏れたせいらしい。
「……強い光ね。私がそれをイメージすれば出せる?」
「うん。なるべく出力上げていこうか」
ハラハラしているロドリックを押し退け、私はサディアスと目配せし合う。サディアスの手が私の左手を握った。
呼吸を落ち着け、右手を前に突き出す。手よりも心臓の辺りが熱いような気がした。
その熱が次第に私の中で脈打ち、迸るように掌に集まっていく。
「ミシェル、行くよ!」
ロドリックがあの獣を倒した時のことを思い出したせいか、私がサディアスの補助によって放った光は大きな長剣の形になり、獣の体を串のように貫く。
嫌な、いつまでも耳に残る断末魔から守るように、ロドリックが私の耳を塞いだ。
あの時と同様に獣は灰になって散ったけれど、私は生き物を傷つけた罪悪感のようなものも感じずにはいられなかった。
「魔物も痛みは感じるのかしら……」
ポツリ、と零す。
すると、サディアスの深紅の目が私を見上げた。
「すべての生き物は痛みと一緒に終わりを迎えるんだから、あるのかもしれないね。でも、そんなことミシェルが気にしなくてもいいんだよ」
自分たちが生きるために傷つける。
心を痛めたところでやることは同じだから、こんな感傷に意味はないのかもしれない。
「つらかったら泣いてもいいし、嫌だって言えばいい。我慢しないで感情を出してくれ」
ロドリックが呆然としている私の顔を覗き込みながら言った。
泣けばいいと。
思えば、最後に泣いたのはいつだっただろう。
兄様がよく泣くせいか、私は自然と泣かなくなった。慰める方に回るようになってしまって、すぐに自分の気持ちを出せない。
もし私が泣いたら、ロドリックは慰めてくれるつもりなのだろう。
それでも、彼に慰められる弱い自分ではいたくないとも思ってしまう。
「大丈夫よ。……じゃあ、行きましょう」
軽く首を振って気持ちを切り替える。
ロドリックはそれでも勝手に私の心を推測し、心配する。
大丈夫と唱える私と、心配する彼。
本当に私の心を正しく知っているのはどちらだろう。
自分のことなのにそんな馬鹿げたことを思った。
急にふわりと視界が揺れた。
深く考えたくない。今のは寝不足か気のせいということにしておく。
「――――ミシェル?」
ロドリックが私に何か話しかけていた。聞いていなかったけれど。
訊き返すのはやめて受け流した。
「サディアス、お願い」
「はーい」
サディアスは元気よく返事をすると私に抱きついた。
――目の前がチカチカする。
視界がぼやけ、意識が一瞬だけ置き去りになったような感覚がした。
最後に見た野原に人影があったように見えたと言ったら、疲れていると返されただろうか。私自身もそう思う。
けれど、ただ一人ポツリと立っていた。
木か何かの見間違いでなかったとは言えないけれど――。




