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赤い月とふたりの舟 ~嫌いなあなたと不思議な国~  作者: 五十鈴 りく


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21✤逃亡

 扉がノックされ、驚いてとっさに扉を閉めた。

 今の会話は本当なのだろうか。まだ心臓が落ち着かない。

 それを隠しながらどうにか答える。


「……はい」


 返ってきたのはメイドの声だ。


「ハーブティーをお持ちしましたが、いかがなさいますか?」

「ありがとう。いただくわ」


 返事をすると、メイドがティーセットを運びながら部屋に入ってくる。それをテーブルに置いた途端に私は彼女に切り出した。


「あの、私と一緒に来た彼は今どこにいるのかしら? ……少し言いすぎてしまったと反省していて、別れる前に一度謝りたいの」


 しょんぼりと、しおらしく見えるように装う。このメイドがベリスの考えなど知らないことを祈った。


「この下の階の客室にいらっしゃいます。でも、こんな時間に殿方のお部屋を訪ねるのは……」


 などと慎ましいことを言われた。


「そうよね。明日の朝にするわ。ありがとう」


 そのメイドの足音が遠ざかるのをじっくりと待ち、再び窓を開けた。

 真下の窓を確認すると、中から明かりが漏れている。ロドリックがそこにいるのだとして、この危険をどう知らせよう。


 私は部屋の中を見回して、それからテーブルの上の砂糖壺に目をつけた。蓋を開けてみると、中には角砂糖がいくつも入っている。それをいくつか握ると、窓から身を乗り出して一階の窓に投げつけた。


 コツン、コツン、と小さな音が鳴る。五つ目を投げ終えた後になって窓が開いた。

 暗いけれど、輪郭からロドリックだと思った。向こうも私だとわかってくれた。


「ミシェル……?」


 呼びかけられたが、私は人差し指を唇に当ててロドリックを黙らせた。

 彼も何か異変を感じたのか、黙ったまま窓を乗り越えて外へ出てきた。けれど、この距離で伝えるには声を張り上げなくてはならない。そうするとベリスたちに聞かれてしまうだろう。


 どうすべきか迷った。

 私は薄いネグリジェしか着ていないし、羽織るものもない。着ていた服は入浴の際に脱いだままだった。

 ――今は羞恥心は横に置いておく。人命救助のためだ。


 この建物の壁の煉瓦は凹凸があるし、窓の枠や庇に足をかければ行けそうな気がした。令嬢のやることではないとしても。

 私もロドリックと同じように窓を乗り越える。


「――っ!」


 下にいたロドリックが声を上げそうになるのを堪えていた。相当に驚かせたのだろう。

 それでも私はどうにか少しずつ下りていく。ロドリックは私が落ちたら受け止めようと構えているのがわかった。


 小さい頃はスカートで木に登って怒られたりしたこともある。兄様は下でおろおろしていて、一緒に登ったのはロドリックだった。


 できそうと思ったことが、やってみると案外難しいなんていうことはざらにある。残念ながら、今がまさにそれだ。

 体重を支えるのに必死な指とつま先がプルプルと震える。あと少し、が難しかった。


 落ちると覚悟した時に、悲鳴を上げないように歯を食いしばった。そして、ロドリックに受け止められた時には思ったほどの衝撃はなかった。

 本当にあと少しだったのに、惜しかった。


「何やってるんだっ」


 声を潜めたロドリックに叱られたが、誰のための無茶かと。


「詳しい話はあと。ここから逃げないとっ」


 それだけ伝えると、ロドリックの顔が強張った。うなずいて私を下ろす。

 そして、私の手を取った。


 ――ただ、どこへ逃げればいいのか。

 それが私たちのどちらにもわからないままだった。


 入り口に向けて走れば、門は閉まっている。

 塀を乗り越えた先にはまだあのドーベルマンの石像がいるのだろうか。

 ベリスに私たちが抜け出したことを告げられてしまう。


 正面から出るのは難しいかもしれない。

 ここではないどこかへ行けたらいいのに。

 

 空に輝く赤い月を見た。

 ロドリックの手を放さないようにギュッと握り返し、ここではないどこかへと願った。

 ベリスが追いつかないところへ行きたいと。


 視界が赤く染まり、金砂のような光が撒かれる。

 月は私の味方をしてくれるのだろうか――。


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