『代わりはいくらでもいる』と婚約破棄されましたが、王家の万応薬を調合できるのは私だけだったようです
「君との婚約は破棄する」
王太子ジークの声が、夜会の喧騒の隙間を縫って届いた。
「代わりはいくらでもいるからね」
隣には男爵令嬢リゼルが寄り添い、不安げに——けれどどこか勝ち誇った目で私を見ている。
私、フィーネ・ローゼンハインは、その言葉を三年間覚悟していた。
「……承知いたしました」
ジークが目を瞬かせた。泣くと思ったのだろうか。縋ると思ったのだろうか。
残念ながら、涙はとうに枯れている。婚約者が別の女性の手ばかり取るのを、夜会のたびに見せつけられた三年間で。
「それだけか?」
「それだけです。殿下がお決めになったことですから」
私は深く一礼して、背を向けた。
胸の奥で、小さな安堵が灯る。
これでようやく、薬草園に帰れる。
ただ——広間の奥で、ひとつの視線が私を捉えていたことに、この時はまだ気づいていなかった。
◆
夜会のバルコニーに出ると、初夏の夜風が火照った頬を冷ました。
見下ろせば、王宮の庭園に植えられた月光草が白く輝いている。あの草は解熱に使える。煎じ方を間違えると毒になるが、正しく扱えば子供の高熱も一晩で下がる。
——こういう時にまで薬草のことを考えてしまうあたり、私はつくづく薬師なのだろう。
ローゼンハイン伯爵家は由緒こそあるが、権勢も財力もない。私に価値があったとすれば、唯一、薬師としての腕だけだ。
万応薬。
王家に代々伝わる秘薬——と世間には知られているが、実際に調合できるのはローゼンハイン家の当主のみだった。数十種の薬草を季節と体質と症状に合わせて配合する。文献に残せない、五感と経験に依る技術。
父が病に倒れてからは、十五の私がその役目を継いだ。
王太子妃候補になったのも、本当は薬の供給を途絶えさせないための政略だった。ジークの父——国王陛下は慢性の呪毒を患っている。万応薬がなければ、半年と保たない。
けれどジークにとって、私は「地味で面白みのない婚約者」でしかなかったらしい。薬を届けに来ても目も合わせず、リゼル嬢と談笑する背中ばかりが記憶に残っている。
それでよかったのだ。
薬草園で土に触れ、薬を煎じる時間だけが、私の居場所だったから。
「——随分と平静だな」
低い声がした。振り返ると、見慣れない暗色の軍服をまとった男がバルコニーの入口に立っていた。
黒髪に鋼色の瞳。切れ長の目元には、戦場を知る者特有の静かな鋭さがある。背が高く、夜闘の中で身じろぎもせずに立つその姿は、まるで塔のようだった。
「失礼ですが、どなたでしょうか」
「クラウディス公爵家のヴェルナーだ。隣国から外交で来ている」
隣国の公爵。軍部の最高位にして、王の右腕と称される人物。「冷血公爵」の異名は、この国にも届いている。
「先ほどの茶番は見ていた」
茶番。婚約破棄を、この人はそう呼んだ。
不思議と嫌な気はしなかった。
「……お恥ずかしいところを」
「恥ずかしいのは向こうだろう」
素っ気なく言い切って、ヴェルナーは私の横に来た。バルコニーの手すりに背を預け、腕を組む。月明かりに照らされた横顔は噂通りの厳しさだったが、声には不思議な温度があった。
「あの王太子は、自分が何を手放したか理解していない」
「買い被りです。私はただの薬師ですから」
「ただの薬師が、王族の持病を十年支えるか」
息が詰まった。
「どこで、そのことを」
「外交官としてこの国に来る以上、調べるのは当然だ。王家の健康を一手に支える万応薬。その唯一の調合者が——婚約者に見向きもされていない伯爵令嬢だという事実にも」
知っている人がいたのか。
王家の者さえ、薬が当然のように届くものだと思い込んで久しいのに。
「お前、月光草の群生地を見ていただろう。さっきから」
……見られていた。庭園の薬草を目で追っていたことまで。
「あの草は——」
「解熱に使うのだろう。煎じ方次第で毒にもなると聞いたが」
「ご存知なんですか」
「基礎程度だが。うちの国は戦が多い。薬の知識がなければ兵を守れない」
驚いた。貴族の男性で薬草学に関心を持つ人間に、私は初めて会った。
ジークは薬を届けても「ああ、置いておいて」としか言わなかった。何を混ぜているのか、どう調合するのか、一度も訊かれたことがない。
「月光草は乾燥させると効能が三割落ちます。だから本来は生のまま使いたいのですが、保存が難しくて……」
口が滑った。こんな話、誰も聞きたくないのに。
慌てて口を噤もうとしたら、ヴェルナーが言った。
「続けろ」
「え?」
「保存が難しい。その先を聞かせろ」
鋼色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。社交辞令ではない。本当に聞きたがっている目だ。
「……私の薬草園では、地下の冷暗室で湿度を管理しています。土の配合を変えて、冬でも育つ品種を掛け合わせて。五年かかりましたが、ようやく通年栽培が安定しました」
ヴェルナーの眉がわずかに上がった。
「五年。たった一人でか」
「好きでやっていることですから」
「好きでやれることに、五年の執念を注げる。それを才能と呼ぶ」
——誰にも言われたことのない言葉だった。
胸の奥で、何かが小さく震えた。
◆
広間に戻ると、空気が変わっていた。
ジークがリゼルと踊る姿を、貴族たちが遠巻きに見ている。同情の視線が私に集まり——しかしその中に、別の色が混じっていた。ジークに向けられた、静かな軽蔑。
三年間薬を届け続けた婚約者を、夜会の片隅で捨てたのだ。宮廷の人間は、そういう所作を見ている。
ヴェルナーが私の半歩前を歩いた。さりげなく——けれど明確に、好奇の視線から私を遮る位置に。
気遣いだと分かった。夜会の場で婚約破棄された令嬢が、どれほどの視線に晒されるか。この人は理解している。
「フィーネ」
ジークが踊りの合間に私を呼んだ。リゼルの手を引いたまま近づいてくる。
「一応言っておくが、万応薬の調合は引き続き頼む。婚約は解消したが、薬は別の話だ。王家との取引として、条件は今まで通りでいいだろう」
——驚きはなかった。
こうなると分かっていた。三年間、私は婚約者としてではなく、薬師として利用されていた。それすら「ついで」程度の認識で。
「殿下」
私は微笑んだ。自分でも驚くほど穏やかに。
「婚約を破棄なさったのは殿下です。であれば、私が王家に尽くす義理もございません」
「——は?」
「万応薬はローゼンハイン家の技術です。王家の所有物ではございません。婚約という繋がりがあったからこそ、お届けしておりました」
ジークの顔が強張った。リゼルが不安げに彼の袖を引く。
「待て、それは困る。父上の薬も、近衛騎士団の回復薬も——」
「代わりはいくらでもいるのでしょう?」
私は静かに問い返した。ジークの言葉を、そのまま返しただけ。
なのに彼は、初めて自分が何を口にしたのか気づいたような顔をした。
「わ、私が作れます!」
リゼルが声を上げた。「私だって薬学を学んでおります。万応薬くらい、文献を読めば——」
「文献はございません」
穏やかに、けれどはっきりと遮った。
「万応薬の調合は、ローゼンハイン家が五代にわたって口伝で継承してきた技術です。配合比は患者の体質ごとに変わり、季節と湿度で薬草の効能も変動します。書き記せるような代物ではないのです」
リゼルの顔から血の気が引いた。ジークの唇が引き結ばれる。
広間が、しん、と静まった。
私はこの静寂を、ほんの少しだけ心地よいと思ってしまった。
◆
国王陛下が玉座から身を乗り出したのは、その時だった。
「フィーネ嬢」
厳かな声が広間に響く。万応薬の価値を、この方だけは正確に理解している。ご自身の命が懸かっているのだから当然だ。
「婚約破棄の件は聞いた。……愚息が取り返しのつかぬことをしたようだ」
ジークが顔を歪めるが、父王の前では何も言えない。
「薬の供給について、改めて条件を相談したい。ローゼンハイン家には相応の——」
「陛下」
私が答えるより先に、低い声が割り込んだ。
ヴェルナーだった。
広間の端から悠然と歩み出るその姿に、周囲がざわめく。隣国の公爵が、なぜこの場で。
「非礼を承知で申し上げる」
国王に一礼し、それから——真っ直ぐに私の前まで来た。
鋼色の瞳が、私だけを見ていた。
「フィーネ・ローゼンハイン」
懐から取り出された封書に、隣国王家の紋章が押されていた。
「俺は半年前から、お前を我が国に招聘する書状を準備していた。お前の技術を正当に評価する。薬師としての地位と研究環境、領地と屋敷、必要な一切を用意する」
——半年前。外交の席で、私が薬草について語った時。あの時から。
広間が騒然となった。ジークが「待て」と声を荒げる。
「それは我が国の人材を奪う行為だ!」
「人材?」
ヴェルナーが冷ややかにジークを見た。
「たった今、『代わりはいくらでもいる』と言って切り捨てた相手を、人材と呼ぶのか。王太子殿下」
ジークが言葉を失った。広間のあちこちで、息を呑む気配がした。
ヴェルナーは再び私に向き直った。そして——衆人環視の中で、ゆっくりと片膝をついた。
隣国の公爵が。冷血公爵と恐れられる男が。
「本音を言う」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「招聘状は建前だ。薬だけがほしいなら、取引で済む話だ」
私の手を取る。大きな手のひらは剣だこで硬かったけれど、触れ方はひどく丁寧だった。壊れ物を扱うように——いや、大切な薬草を摘むように。
「俺が欲しいのは、お前だ」
広間が静まり返った。
「半年前、お前が月光草の栽培について語るのを聞いた。五年かけて通年栽培を成功させたと。目が輝いていた。あの時から——」
言葉を切り、ヴェルナーは一度だけ視線を逸らした。耳の先が赤い。
「……ずっと、考えていた」
無愛想な人だと思っていた。冷たい人だと聞いていた。
でも、この人は——薬草の話を「続けろ」と言ってくれた。月光草の煎じ方を知っていた。私の五年の執念を「才能」と呼んでくれた。
誰も見なかった私を、見ていてくれた人がいた。
「お前の知識も、技術も、どんな仕打ちを受けても穏やかに笑えるその強さも。全部、俺の隣に置きたい」
視界が滲んだ。
枯れたはずの涙が、一筋だけ頬を伝った。
婚約を破棄された時には何も感じなかったのに。
価値を認めてもらえた瞬間に、こんなにも脆くなるのか。
「俺の国に来い、フィーネ」
名前を呼ばれた。
ジークが公の場で一度も呼んでくれなかった名前を。
「……はい」
声が震えた。けれど、はっきりと。
「参ります。ヴェルナー」
敬称を外した。ヴェルナーの鋼色の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。
立ち上がった彼は、私の手を離さないまま国王に向き直った。
「陛下。この件に関して、異議があれば承る」
国王は長い沈黙の後、深い溜息をついた。
そこにあったのは怒りではなく、諦めと——ほんのわずかな、安堵のようにも見えた。
この方も、私が正当に扱われていないことを知っていたのかもしれない。ただ、政治の駒として目を瞑っていただけで。
「……異議はない。フィーネ嬢の意思を尊重する」
ジークが「父上!」と叫んだ。
「黙れ、ジーク」
国王の声は、夜会で聞いたどの言葉よりも冷たかった。
「お前が手放したのだ。手放したものの行き先を選ぶ権利は、もうお前にはない」
◆
夜会の幕が下りた。
馬車が並ぶ正門前で、ヴェルナーは待っていてくれた。
「……あの」
涙の跡が恥ずかしくて、つい目を逸らす。
「泣いたことを気にしているのか」
「だって夜会の場で……」
「あの場で泣かない人間のほうがどうかしている」
ぶっきらぼうに言って、ヴェルナーは自分の外套を私の肩にかけた。初夏とはいえ夜風は冷たい。まるで私の体温を知っているかのような、自然な仕草だった。
「フィーネ」
「は、はい」
「隣国までは馬車で三日かかる。その間に、お前の好きな薬草の話を聞かせてくれ」
——好きな薬草の話。
誰にも興味を持たれなかった、地味で長い話を。
「……長くなりますよ」
「構わない。三日で足りなければ、一生かけて聞く」
この人は、こういう台詞を無表情で言うのだ。
耳が赤いことに気づいているのは、きっと私だけ。
「それから、着いたら真っ先に土地を見せる。南向きの丘陵地がある。日当たりが良く、地下水脈が近い。薬草園には悪くないはずだ」
……もう下調べまで。
「ヴェルナー」
「ん」
「もしかして、半年前からずっと準備を?」
「…………外交官として、有能な人材の確保は当然の職務だ」
耳どころか首まで赤くなっている。冷血公爵の異名が泣いている。
「ありがとうございます」
笑った。心の底から。三年ぶりに、夜会の場以外で笑えた気がした。
差し出された手を取った。
硬くて、大きくて、温かい手だった。
振り返らなかった。
振り返る理由が、もう何もなかったから。
◆
後日。
王家から届いた万応薬の調合依頼書に対し、ローゼンハイン家の老執事はこう返答したという。
「お嬢様は隣国に嫁がれました。万応薬につきましては——代わりをお探しくださいませ」
代わりは、いくらでもいるのだそうだから。
なお、隣国の公爵領では「奥方様の薬草園」が王都一の規模に拡張され、公爵自ら薬草の水やりを手伝う姿が目撃されているとかいないとか。
お読みいただきありがとうございます。
「代わりはいくらでもいる」と言った側が、代わりのなさを思い知るお話を書きたいと思いました。ヴェルナーの耳が赤い描写を書くのが一番楽しかったです。
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