第4話
エピテ聖堂は、モリアンが所属するオグマス修道院と同じ教区の聖堂であり、モリアンは聖堂が運営する孤児院の管理にも関わっている。ただモリアンはあまり子供たちと接する機会はなく、以前鎮魂の祈祷の最中にふざけながら入ってきた子供たちを一喝したこともあるため少々怖がられている。しかし、おかげでそれ以降は鎮魂の祈祷を妨害されなくなったし、優しくすることは他の修道者に任せているためモリアンは気にしていない。それに、甘やかすことは簡単だが、それだけでは子供たちのためにはならない。
その日モリアンがエピデ聖堂を訪れたのも、鎮魂の祈祷を行うためだった。
モリアンはそこでドミニクと顔を合わせた。ドミニクは子供たちと共に朝の祈祷を行う任に就いている。にこやかで人当たりもいいので、子供たちからは好かれていた。
「鎮魂の祈祷?」
「うん」
モリアンとドミニクはオグマス修道院で長く共に修行した間柄であり、幼馴染のような関係だった。既に気心も知れているため、二人の間では短い挨拶と会話で大抵のことが済む。
しかしこの日、ドミニクはモリアンに会うと顔を近づけ、すんすん、と匂いを嗅いだ。
「狼将軍の匂いがすごいね」
モリアンも入浴はしているのだが、それでも獣人や半獣人には充分わかる程度にはマティスの匂いがついていた。
マーキングだな、とドミニクは思ったが、それは口に出さず、代わりにふう、と短い溜息を吐いた。
「…修道者なんてならなきゃよかったかな」
「は?」
ドミニクは唐突にそんなことを言い出した。
「あのまま軍隊で兵士になればよかったかも」
「なんで急にそんなこと言い出すの」
普段ドミニクはこんな愚痴めいた物言いはしない。
それに、福伝書の研究をしたいからと修道者の道を選んだ理由をモリアンに語ったのは他ならぬドミニクである。
「昇進して将軍になれば、君の聖配になれたかもしれないから」
ドミニクの言わんとするところを理解して、モリアンの眉間に深い皺が寄る。
「…ドミニク」
モリアンが発した声には怒気が混じっていた。
修道者同士の恋愛は、重大な禁忌のひとつである。男女問わず修道者はアルマスと婚姻関係にあると聖典にも記されているのだ。修道者であるからには、その愛はアルマスのみに向けるべきであり、同時にアルマスからの愛を唯一至上のものとして受け入れることになる。他の者との恋愛関係など言語道断だった。ましてや修道者同士の恋愛は、今でも破門及び国外追放が最高刑であり、一昔前までは斬首刑が教会法によって定められていたほどの重罪である。
ただひとつの例外が聖配で、聖典の中にはアルマスの言葉として、
“正しき修道者は、我を愛するように聖配を愛せよ。聖配を愛するならば、それは則ち我への愛である”
と記されている。
「まあ、今更言っても詮無いことだね。聞かなかったことにしてよ」
ドミニクは一人で勝手に話を完結させてしまったが、モリアンはしばらくドミニクを睨んでいた。
「…私は祈祷があるから」
そして、それだけ言ってモリアンはドミニクに背を向けて歩き出す。
モリアンが本気で怒って許さない気でいるならば、教会法違反容疑で教区司教に届け出る前に間違いなくぶん殴ってくるはずなので、頼んだ通り聞かなかったことにしてくれたのだとドミニクは理解した。
ドミニクと別れたモリアンは沐浴室で聖典に記された通りに体を洗った。その後は潔斎室に入り、食事を断って潔斎のための祈祷を夜まで続け、潔斎室でそのまま就寝した。
翌朝、食事を断って丸一日経ったモリアンは、祈祷室に入って鎮魂の儀式を始めた。
死者を悼むための香を焚き、マティスから受け取った死者の名簿を開く。そこには兵士だけでなく、国境付近に居住していたためにゴーレ軍の攻撃に巻き込まれて亡くなった非戦闘員の市民の名もあった。記されているのは名前だけなので年齢などはわからないが、幼い子供も犠牲になった可能性がある。
モリアンは名簿にある名を見つめ、一人一人の名前を呼び、鎮魂の祈祷を捧げた。
マティスが一か月で方を付けたためにその分死者の数は少ないが、それでも亡くなった一人一人にとってはたったひとつの命であり、その家族や友人、恋人にとってはかけがえのない存在だったはずだ。その悲しみや無念を思いながら、せめて亡くなった人々が安らかに眠れるようにとモリアンは祈る。
モリアンはそのままエピテ聖堂に三晩泊まり込んだ。食事は一日一回、蕎麦の実の粥を一杯のみ、あとはセージとタイムを煎じたお茶を飲むだけと戒律で定められている。モリアンは戒律に従いつつ夜遅くまで祈り、朝は暗いうちから祈り始め、四日間祈祷室で祈り続けた。
すべての死者に祈りを捧げ終えたのは、潔斎を始めてから五日目の夕方近くのことだった。
モリアンは締め括りの祈祷を唱えながら儀式を終え、用具を片付けて祈祷室から出た。
もちろん身体は疲れていたが、死と隣り合わせの戦場に身を置く兵士や、貧しい暮らしで飢えている人々の境遇を思えば、どうということはないとモリアンは思っている。
何よりモリアン自身、貧しい農村に生まれ、飢饉で家族が亡くなるのを幼い身で目の当たりにしたのだから。
モリアンが聖堂の事務所で諸々の手続きをして祈祷を終えたことを記録していると、ひょっこりとドミニクが現れた。
聞けば、福伝書の内容について子供たちに教える特別授業が午後にあったのだという。
モリアンは、潔斎前のドミニクの言葉について責めることはなかった。
ドミニクはモリアンの顔を数秒じーと見つめる。
「すごい顔」
「知ってる」
祈祷の間はずっと体を洗っていないし、限られた食事と休息のみなので、鏡を見なくても自分がどんな見た目になっているかくらいモリアンもわかっている。
ドミニクも、祈祷室にこもって死者のために祈る鎮魂の祈祷がいかなるものか知っているため、モリアンがどれほど疲労しているかは容易に想像できた。
モリアンとドミニクは、なんということは無しに二人で並んで聖堂を出た。
「送っていこうかなと思ったけど、僕の出る幕はなさそうだね」
ドミニクはそう呟いたが、モリアンは聖堂を出た瞬間どっと疲れが襲ってきて頭の回転が鈍り、ドミニクの言葉の意味がわからなかった。
しかし、ふと道の向こうからやって来る白いモフモフに気付いた(疲れてる)
「お迎えに上がりました。モリアン様」
モリアンの前で、マティスは恭しく会釈した。
「こもりっぱなしになるから来なくていいっていつも言ってるじゃないですか…」
聖堂を出たので気が緩んでいるモリアンは、呆れの混じった声で愚痴った。
「ですが、お疲れであるとわかっているのに、あなた様を徒歩で帰らせるわけにも参りません」
そう言いながらマティスは慣れた手つきでモリアンを軽々と抱え上げて馬に乗せた。
「モリアン様は私が安全にお連れ致しますので、どうぞご心配なく。ドミニク・レルエグ殿」
「そうですか。それではどうぞよろしくお願いします。マティス将軍」
両者にこやか且つ穏やかに言葉を交わしたが、マティスの目の奥に敵意がちらついているのがドミニクには見えた。もっともマティス自身、警戒心を隠す気は無く、ドミニクの方も挑発的に笑みを浮かべる。
「ドミニク」
モリアンは疲れてはいたが、マティスとドミニクの間の緊張した空気を察した。
「殴られたいの?」
何しろモリアンにとって、聖配であるマティスへの挑発は、モリアンの信仰とアルマスに対する冒涜にすらなり得る。
「まさか」
ドミニクはそう言って笑ったが、モリアンはドミニクを睨んだままだった。
モリアンがドミニクを脅し…ではなく牽制してくれてうれしいマティスは、尻尾を上向きに揺らしながらモリアンの後ろに跨る形で馬に乗った。
「では失礼を」
ドミニクにそう告げてマティスはモリアンを連れて聖堂を後にした。
「…匂いきつくないですか」
潔斎のために沐浴して以降体を洗っていないモリアンは、振り返ってマティスの様子を伺った。
マティスは狼の獣人、ティール族であり、その嗅覚は人間の何万倍にもなると言われている。
「むしろ、あなた様の匂いが濃いので私は嬉しいです。香の匂いが邪魔なくらいです」
「そういうものですか…」
実際、マティスの尻尾は機嫌よさげに揺れていた。
「本当は」
しばらく馬を進めるうちに、モリアンが口を開いた。
「あなたが迎えに来てくれてうれしいです」
モリアンは振り返り、マティスを見上げて微笑んだ。
「疲れているから助かるというよりも」
夕暮れの風に吹かれて、モリアンの後れ毛が揺れる。
「あなたが、私のことを思ってくれていることがうれしいです」
モリアンの言葉は至って素朴で、けれどそれゆえに飾り気のない思いが伝わり、マティスは胸がいっぱいで言葉が出なかったが尻尾はぶぉんぶぉん回転した。
「あなたとこうして一緒に馬に乗るのも好きですし」
マティスは帰宅する前にそのあたりの茂みにモリアンを連れ込んでしまいたくなったが、年甲斐もなくサカっていると思われたくないので耐えた(ええかっこしい)
マティスが煩悩を振り払おうと軍規の条項を頭の中で暗唱している間、モリアンの脳裏にはフレデリクのことが一瞬よぎった。
フレデリクは、モリアンが数日にわたる祈祷を終えてどれほど疲労していようとも、労わる言葉一つ掛けてくれたことはなかった。
モリアンも、誰かに労われるために祈祷をしているわけではないので、フレデリクの態度もこれが一般的なものなのだろうとさえ思っていた。
決してそうではないとモリアンが知ったのは、マティスを聖配として迎えてからのことだった。
「…そういえば」
馬に揺られながらふとモリアンは気付いた。
「どうしていつも祈祷の終わる日がわかるんですか?」
「・・・・・・」
マティスは返答せずに沈黙する。ちなみに尻尾の動きも止まった。
それは何か気まずいことがあった時のマティスの癖なので、モリアンは即座に察して振り向いた。
「まさか毎日来て待ってたなんてことはないですよね?」
う゛っ
図星を突かれてマティスは息を詰めた。
モリアンはマジかと思いながらマティスを見つめたが、マティスは気まずそうに目を合わせようとしなかった。
「戦場を離れると、少々時間を持て余してしまうもので…」
頭の回転が速いマティスは事務処理能力も高く、書類仕事もすぐに終わらせてしまうことで知られている。
階級が低い頃は戦闘と訓練以外は体を休めるだけで時間が潰れるくらいだったが、兵を指揮する立場になると肉体的な疲労は随分と減った。
「何か趣味を見つけるといいんじゃないでしょうか」
「趣味、ですか」
マティスの口ぶりから、ああこの人趣味見つけられなさそうだなとモリアンは思った。
ちなみにモリアンも趣味らしい趣味は無く、空いた時間は聖典か祈祷書を読んだり、あるいは逆に何も考えず瞑想に耽る。
「趣味ではなくとも戦史研究とかいかがですか。文献を集めるのに少々お金は必要ですけど」
「確かに戦史には興味があります。国外の戦史はあまり知りませんし」
「外国語の文献でも、言語によっては私も翻訳できますよ」
「お気持ちはうれしいですが、あなたのお時間を削るくらいなら料金を払って業者に頼みます」
「まあそれは好きにして頂いていいんですけど」
そんな話をしながら二人で馬に乗っていたが、ふと、モリアンの返事が無くなった。マティスが声を掛けようとした瞬間、がくんとモリアンの体が前のめりに倒れた。
「っ!?」
モリアンが落ちそうになってマティスは反射的に自分の方へ引き寄せる。
するとモリアンはあっさりマティスの胸の中に納まった。
マティスが顔を覗き込むと、モリアンは目を閉じて寝息を立てていた。
マティスは祈祷を終えたモリアンをいつも迎えに来ていたが、モリアンが馬上で寝落ちしたのは初めてだった。
余程疲れているのか、それとも気を許してくれるようになったからなのか。
「…モリアン様」
マティスが間近でそう呼びかけても、モリアンが目覚める様子はなかった。
髪は乱れ、顔色が悪く、唇もがさがさで、見るからに疲労困憊しており、安らかな寝顔とは言い難い。
しかし、亡くなった人々のために心身のすべてを捧げて祈り続けた修道者の姿がそこにあった。
マティスはこれまでもモリアンの献身と覚悟を幾度も目にしてきたが、ある時マティスは、もはやモリアンが聖女であることなどは関係ないのだと気付いた。
おそらくモリアンは、たとえ聖女でなかったとしても、戦で亡くなった人々の死を悲しみ、魂の安寧のために祈るのだろう。
あるいは政治の世界に飛び込み、軍事衝突が起こらないよう外交的手段を尽くすのかもしれない。
どんな生き方を選ぼうと、きっとモリアンはひたむきにその道を進んでいったはずだ。
けれどモリアンが信仰の道に生きることを選ばなければ、こうして腕に抱かれてくれることなどなかっただろうとマティスは思った。
マティスは眠るモリアンを胸に抱き、そのぬくもりを感じながら夕暮れの中をゆっくりと帰って行った。