第3話
乱れた息で胸を上下させながら、マティスは自分に跨っているモリアンを見上げる。
快感の余韻に浸るモリアンの汗ばんだ肌に触れたいと思ったが、腕を伸ばすことは叶わず、ギシギシと軋む音が聞こえるだけだった。
マティスの両腕は革紐で縛られ、ベッドヘッドの脇の壁に固定されていた。
モリアンにとっては慣れたものだった。
異端審問の一環として拘束や拷問を行うための手法は、修道者となるための修行の一環として学ばれているのだから。
もちろん過酷な異端審問が行われたのは過去の話であり、現在はたとえ教会関係者であっても、不当な拘束や拷問を行えばセルタエ王国の法に触れる。
だからモリアンも、今の時代は拘束も拷問も実践する機会など無いだろうと思っていたので、まさか聖配との交わりの中で役立つ日が来るなどとは予想だにしなかった。
そして自分がそれをこんなにも愉しんでしまうなどとは。
「…モリアン様」
マティスが呼ぶと、モリアンはまだ欲の潤みの残った目で見つめてきた。
「外して、頂けませんか」
ギシ、とマティスは革紐を引く。
「あなたを、抱き締めたい」
マティスの切なそうな顔を見て、モリアンはぞくりと興奮した。
「抱き締めさせて、ください」
そんなふうに懇願されてはモリアンが拒否する理由は無く、革紐の結び目を解いた。
戒めが解けた途端、マティスは革紐を振りほどき、モリアンに襲い掛かるかのように抱きつく。そして勢いのまま押し倒してモリアンの肌に噛み付いた。
「んっ…!」
マティスはモリアンの首筋に歯を立てたが、服を着て見える場所には痕をつけないように甘く噛み、舌でモリアンの肌を舐め上げた。
「ぁ、あっ、ん…!」
モリアンはマティスから噛まれることも痕をつけられることにももう慣れた。むしろマティスからの愛情表現だと思うとうれしくて、身も心も喜びと共にそれを受け入れている。
そしてマティスの甘噛みは、優しいがゆえにとろけるような快感をもたらし、モリアンは反射的にマティスにしがみついた。マティスも応えるようにモリアンを抱き締め、その大きな体でモリアンを包み込む。モリアンはふわふわの毛に包まれて、そのぬくもりに身を委ねる。
「幸せ…」
モリアンが甘い溜息と共にそう呟くと、モリアンの肌を味わっていたマティスの耳がぴくりと反応した。マティスは顔を上げ、その琥珀色の瞳でモリアンを見つめる。
「私もです」
マティスの声は甘く掠れていた。
「私も、幸せです」
マティスがそう告げると、モリアンは心底うれしそうににっこりと笑った。
その瞬間、マティスの胸に熱が溢れ、マティスはモリアンの唇を求めた。
「んっ、ん…」
濡れた音と共に舌を絡め合い、モリアンの唇をたっぷりと味わってマティスが口を離すと、二人のものが混ざった唾液が糸を引いた。
「……もう一度」
マティスは躊躇いがちに囁く。
「もう一度、いいでしょうか」
モリアンの唇に、浅く熱い息を吹きかけながらマティスは請うた。
普段は清廉なマティスから酷く熱っぽく求められ、その熱が伝わったモリアンは目を細めて頷いた。
「式典の日の予定は大丈夫ですか?」
素肌のままのモリアンを腕に抱き、あたためながらマティスは尋ねた。
「はい。調整してあります」
マティスがゴーレ軍を退けた報せを受けた国王シャルルは、関係閣僚と話し合い、マティスへの勲章授与を決定した。マティスが王都へ帰還した時には、既に式典の日程も決まっていた。
こういった場合には軍人を聖配としている修道者が式典に同伴することが通例となっており、モリアンも既に三回マティスの勲章授与式に同伴している。
「…どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
マティスの尻尾がぱたぱたと機嫌よさげに揺れているのがモリアンは少々不思議だった。
勲章の授与に限らず重要な式典では当然マティスは正装せねばならず、モリアンも手伝うのだが、
「正装は窮屈で苦手です」
「甲冑の方がずっとましです」
と式典が始まる前からマティスは疲れた表情を見せるのが常だった。
正装時は、尻尾が不用意に揺れないよう、付け根に革のベルトをきつめに巻くのも窮屈さの理由のひとつではあるのだが。
「…いえ」
マティスは照れた様子で少々口ごもる。
「正装するあなたを拝見できる貴重な機会なもので…」
既にモリアンとマティスは一年近く一緒に暮らしているが、マティスがそんな風に思っていたとはモリアンも知らなかった。
しかし正装と言っても、そもそも修道者の服装は戒律で定められている。季節によって多少色や形、素材の違いがあるだけで、きらびやかなドレスを着るわけではない。
とはいえモリアンは普段も戒律に従って非常に質素な服を着ているだけなので、儀式や祝典、国王への謁見の際の服装はマティスにとって非常に特別感があった。
「どの色をお召しになるんですか?」
「今の季節は紺色ですね」
それを聞いたマティスは尻尾がぶんぶん揺れた。
「モリアン様が紺色を着られるのはまだ見たことがないので楽しみです」
マティスはうれしそうに笑ったが、ふと思い出す。
「ですが…」
「何です?」
マティスの表情が曇ったのでモリアンはマティスの顔を覗き込んだ。しかしマティスの方は微妙に目をそらして少々気まずそうだった。
「正装したあなたを…あまり人の目に触れさせたくない気もしてしまって」
「は?」
マティスの口からはもちろん、モリアンにとって今まで誰からも言われたことの無い類の言葉が出てきた。
美貌の伴侶を持つとそういう考えに至ることもあるらしいとはモリアンも知っているが、まさか自分に起こるとは思っていなかった。
「軍に…あなたのことを素敵だとか、魅力的だとか言う者がいるようで…」
「はあ」
モリアンはだいたい理解した。
修道者という特殊な存在に対して、信仰とは別の感情を向けて嗜好する人々は昔からいる。
「そういう方々は一昔前なら鞭打ちの刑に処されて社会的に終了するような人たちですから気にしなくていいですよ」
実際、今でこそ撤廃されているが、修道者を信仰以外の目で見ていることを口に出した者は鞭打ちの刑に処されることが、かつては教会法によって正式に定められていた。ちなみに話した内容によって鞭打ちの回数が変わる。
嗜好は人それぞれだから好きにすればいいとモリアンも思っているが、それは公序良俗の範囲内の話である。修道者に対して聖典に反するような思いを抱いていると口に出すような輩は、今でもモリアンから見れば守護神アルマスと修道者を冒涜しているも同然だった。
該当の教会法が撤廃されていなかったなら、教会法第228条を行使して自分が刑を執行してやりたいくらいだとモリアンは思っている。
余談だが、鞭打ちの刑を自ら執行する場合に備えて、修道者になるための修行には現在でも鞭打ちの訓練が含まれている。鞭の扱いや位置取りなどそれなりの習熟が必要になるからだった。とはいえ、もちろん今は実際に鞭打ちを行う修道者はほぼいない。ただし、聖配から請われて同意の上で鞭を扱っているような可能性はある。
「昔の教会法では、修道者を邪な目で見るだけで刑罰が下されたんですけどね…」
修道者をアレな目で見ていたと裁判で認められた者には、公衆の前で晒しものにする刑が課されていたが、修道者と目が合っただけで無実の市民が逮捕されたりと、言い掛かり同然に濫用されることも多く、かなり早いうちに撤廃された。
一方で、修道者への愛の告白をした者は修道者の信仰とアルマスを侮辱したと見做されて、鞭打ち及び焼印の刑に処せられるという教会法はわりと最近まで残っていた。
ただし、修道者が聖配から言われる分には、愛していると告げられようがエロいと褒められようが、それが公衆の面前であっても特に問題は無く、本人たちの裁量に任されている。
もちろん今でも何らかの嫌がらせを受けた場合は世俗の法に則って捜査され、相応の処分となる。ただ、修道者に対する言動を制限し、違反した者への刑罰を規定した教会法は現在もいくつか残っており、刑法や民法、社会通念の変化との兼ね合いが常に議論され続けている。
「モリアン様を魅力的だと思うだけならまだしも、もしもモリアン様にあまりに邪な考えを抱くような者がいたならば私が」
そこまで言ってマティスは口を噤んだ。
「……“私が”、何ですか?」
「・・・・・・」
マティスは答えずに押し黙った。
そういう時は決まってマティスは何か気まずいと思っていると知っているモリアンはいろいろ察した。
「あなた今何か物騒なことを考えましたね?」
「まさか。そんなことはありませんよ」
マティスは余裕ありげに答えたが、その耳は後ろ向きに下がりかけていて、尻尾はベッドと垂直方向にゆっくり揺れていた。
「…そうですか」
「ええ」
モリアンが納得してくれたと思ったマティスは穏やかに微笑んで頷く。
が。
「てっきり、“私が喉を噛みちぎってやります”とでも言おうとしたのかと思いましたよ」
ぐっ
物騒な考えが見透かされていてマティスは尻尾が硬直した。
「絶対にやめてくださいね、そんなこと」
モリアンにとって、罰とはアルマスが下すものであり、実際人々も、世俗の法に則った刑罰もアルマスの導きによって下されたものだと信じている。
モリアンから瞳を覗き込まれて言われては、マティスが逆らえるわけがなかった。
「…わかりました。あなたが、そう仰るならば」
「約束してくれますか?」
「約束致します」
マティスが答えると、よかった、とモリアンは微笑んだ。
「それに、あなたが」
モリアンは、マティスの背を強く抱き締め、耳元で囁いた。
「他の誰かの首に噛み付くなんて、私は耐えられませんし」
正にマティスの目の前に、先程マティスが噛みついた首筋を差し出しながら、モリアンは甘い声でそう告げ、マティスは背筋と尻尾が痺れるように震えた。
[つづく]
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