第2話
セルタエ王国では、戦いに赴く者はすべからく、セルタエの守護神アルマスの加護に与るものとされている。
そしてその加護を世に広く分け与えることは、アルマスに仕える修道者にとって使命のひとつである。
アルマスに仕える者は、正式には男女の区別なく修道者と呼ばれる。しかし女性の修道者は、歴史的にも長らく聖女と呼ばれてきたため、その呼び方も特に禁じられているわけではない。
そしてセルタエでは、信仰と軍隊は古代から強く結び付いてきた。
その伝統は現在も続いており、将軍など一定数以上の兵士を率いる者は、修道者の伴侶、聖配となるべしと法律で正式に定められている。
兵士を率いる者が聖配となり修道者と契りを交わすことで、配下の兵士もアルマスの加護を得られると信じられている。また修道者の性行為は“セカナの秘儀”と呼ばれ、戦いで浴びた敵の血を祓い浄め、聖配および配下の兵の心身を癒し、次の戦いに備える儀式だった。
そして修道者は、戦いの間、聖配と兵士たちの安全と勝利を祈る。戦いの後は、流された人々の血を悼み、戦死した兵士たち、また敵によって殺された非戦闘員の人々の鎮魂を行うことも重要な務めとなっている。
マティスが昇進して将軍となり、モリアンの聖配となることが神託によって決まったのは一年ほど前のことだ。
修道者と聖配は同居が義務付けられているわけではないが、マティスは自宅にモリアンのための部屋を用意した。多くの将軍たちが、聖配となることは結婚も同然だと言っていたからだった。さらに修道者と聖配との間に子が生まれた場合は、聖配の子として世俗で育てられることも認められている。修道者と聖配との間に生まれた子は、セルタエの守護神アルマスの祝福を生まれながら受けていると見做され、聖配の親族も一族の誇りとして歓迎する。
とはいえ実際は、聖配には修道者以外との結婚が認められている。結婚を認められないのは修道者のみで、修道者は聖配以外の相手との性行為も禁じられている。
それは、修道者と聖配の関係はあくまでアルマスの加護を得るための契約とされているからであり、世俗における結婚とは全く別のものとして扱われるからだった。
しかし、修道者との契りが性行為であるために、世俗的な結婚をしたとしても伴侶とうまくいかなくなることが多いのも事実だった。そのため、ほとんどの聖配は修道者を事実上の結婚相手として関係を築いている。出世を本気で狙う野心的な軍人は、将来的に聖配となることを見込んで恋愛や結婚はしないという者も多い。
ちなみにマティスも、歳相応に性行為の経験はあるが、未婚で恋人もいなかった。
しかしマティスの場合は、孤児となって他に行く当てが無く軍に入って以降、ひたすら戦いに明け暮れてきたために、恋愛とも結婚とも無縁のまま将軍になってしまっただけだった。
そしてそのせいでマティスは結婚生活の形式を知ってはいても、伴侶となることが如何なるものなのかいまいち理解できていなかった。
それでも、共に暮らして契りを交わし、人々のために、セルタエのために、兵士たちのために、力を尽くさんとする者同士、誠実であろうと心に決めた。ましてや相手は、セルタエの守護神アルマスに仕える聖なる存在なのだ。
そして、マティスが初めてモリアンと対面したのは、聖配となる儀式が行われたヴァジェシ大聖堂だった。
ヴァジェシ大聖堂はアルマス信仰の頂点である聖首座を擁し、国王の戴冠式も行われる最も権威ある大聖堂である。マティスは周囲の警護の任に就いたことはあるが、ヴァジェシ大聖堂の中へ足を踏み入れたことはそれまでなかった。
モリアンは聖典に定められている通り、赤い服を着て灰色のマントを着け、聖首座に就いている首座司教の前でマティスを迎えた。モリアンは予め、アルマスが戦士に与えた食事とされる、羊乳と羊肉を穀物と共に煮込んだスープを自ら作って準備していた。儀式では、そのスープの入った器をマティスに渡し、マティスはそのスープを口にすることで、正式にモリアンの聖配となった。
そしてその日の夜、マティスはモリアンとの初めての交わりのためにモリアンの寝室を訪れた。
「聖女様。ラザール・ジャン・マティス、参りました」
マティスは、大きな体を屈めてモリアンに深々と会釈した。
「改めて、あなた様の聖配に選んで頂き恐悦至極に存じます」
マティスは努めて落ち着いた雰囲気を保ち、紳士然と挨拶した。
しかし実際はガッチガチに緊張しており、尻尾を脚の間で丸めてしまいそうになるのを必死に堪えていた。何ならヴァジェシ大聖堂での儀式の時よりも緊張していた。
「こちらこそ、あなたが聖配となってくださって光栄です。マティス将軍」
一方モリアンはというと、悠然とベッドに腰掛け、にこやかにマティスに微笑みかけた。
「どうぞこちらへ」
モリアンは、ドアの前で立ったままでいるマティスを促した。
マティスは震えそうになりつつモリアンの隣に腰を下ろしたが、激しく拍動する心臓の動きが服の上からでもモリアンに悟られてしまうのではないかと思うほどだった。
マティスはモリアンの隣に座ったはいいものの、何をどうすればいいのか全くわからず、モリアンと目も合わせないまま黙りこくった。
聖配の何たるか、どうあるべきかということはマティスも司教から教えを受けている。修道者を尊重し、愛し、慈しむようにと言われたが、初めての交わりの夜に何を話すべきかということは誰も教えてくれなかった。
まあそんなもんである。
「…マティス将軍」
「はい」
突然モリアンから呼ばれて、マティスは声が裏返りかけた。
「やはり気にしていらっしゃるのでしょうか」
マティスは隣のモリアンに顔を向けたが、モリアンは目を伏せ、穏やかながらもどこか悲しげな横顔を見せていた。
「私が殿下の修道者から降ろされたことを」
モリアンは幼い頃からアルマスに仕え、長い修行の末に正式に修道者として叙された後、国王の第二王子であるフレデリクを聖配として迎えた。
修道者にとって王族を聖配とすることは大きな栄誉であり、女性の場合は通俗的に“王家の聖女”とも呼ばれる。
そして王族に限っては、聖配となった場合には世俗的な結婚は禁じられる。また、聖配が王として即位した場合には、修道者は王配の座に就くことも法で定められている。
とはいえ、王位継承権一位はフレデリクの兄、第一王子レオポルドだったため、モリアンが王配となる見込みは薄かった。
しかし、レオポルド王子が急逝したことで事態が変わり、フレデリク王子が次期国王に決まった。
同時にモリアンも将来王配となることが内定したのだが、一年前、突如としてフレデリク王子の聖女から降ろされた。アルマスの神託によるものだとモリアンは聞かされた。
そして、かつてモリアンと共に聖女として修行していたテレーズが、モリアンに代わってフレデリクを聖配とした。
「私は、修道者として力を尽くして殿下にお仕えしていたつもりでしたが…」
モリアンは、おそらく自分が自覚できなかったところで何か至らないことがあり、だからアルマスは神託を下したのだろうと思うしかなかった。
ただ、修道者の聖配が変わること自体は、現在さほど珍しいことではない。聖配を決める際にも、必ずしも神託を最優先にするわけでもない。
交わりを行う以上どうしても相性が悪いこともあるし、特に問題はなかったはずの関係が時が経って悪化してしまうこともある。昔はそれでも神託が絶対であり、聖配を変えることも禁じられていたが、修道者との関係の悪化で将軍の戦績が下がったり、聖配との感情の行き違いに悩んだ修道者が自殺したり、聖配を固定することで生じる弊害が目立つようになった。そして教会や軍、国王や貴族たちの間で長く議論が交わされ、やがて聖配を変えることを禁じる法は撤廃された。
しかし、いくら法的に認められているとはいえ、交わりの相手である修道者がしょっちゅう変わる将軍や、聖配をころころ変える修道者は、たとえ表面化しなくとも何か問題があると見做されて社会的な信用を失っていく。
モリアンのように神託があって聖配を奪われたりする場合も、何か過怠か不品行があったのではないかと疑われやすい。
しかし、およそ一年が経ってから再び神託によってマティスがモリアンの聖配となり、これらの神託は一体何を意味しているのだろうかと人々は困惑した。
「ですが、あなたが聖配となってくださった限りは、私はあなたに精一杯お仕え致します」
マティスも将軍であるからには人を見る目は持っている。
そのマティスの目を真っ直ぐに見つめるモリアンが、本心からそう言ってくれていることはマティスにもわかった。
とはいえ実はマティスは、モリアンはかつて王族を聖配としていた聖女なのだから、隻眼の獣人の将軍などを聖配にあてがわれてきっと忸怩たる思いをしているに違いないと勝手に思い込んでいた。
しかし、モリアンにとっては聖配が誰であろうと誠実に務めを果たすことに変わりはないのだと知り、マティスは己の偏見を恥じ、同時に心が随分と軽くなった。
「聖女様」
ひとつ深呼吸してから、マティスは口を開いた。
「全てはアルマスの思し召しなのですから、私は気に致しません」
それにマティスは、目の前のモリアンが修道者として何か不行き届きがあったとは思えなかった。
ならば、自分がモリアンの聖配となることをアルマスが望んだに違いないと思えた。
「それに、以前聖配がいらっしゃった聖女様に……お導き頂けるならば、私はむしろ心強く思います」
それはお世辞などではなく、紛れもなくマティスの本音だった。
それが通じたのか、モリアンの硬い表情が和らぐ。
「…あなたのことはいくらか伺っていましたが」
モリアンはマティスの琥珀のような瞳を見つめた。
「こんなに優しい方だだったなんて」
そう言って顔をほころばせるモリアンにマティスが見惚れているうちに、モリアンから手を握られて、マティスは不覚にも尻尾が跳び上がった。
「大きな手…」
モリアンはマティスの片手を取ってまじまじと見つめる。
マティスは、もう片方の手で尻尾が暴れないようにがっちり押さえ付けた。
「戦う剣士の手ですね」
かつて自ら戦場を駆け、大剣を振るっていたマティスの手は、大小無数の傷痕があり、掌の皮も厚く硬くなっている。
ふとマティスは、モリアンの手にもマティスに劣らぬ傷痕があることに気付いた。
よく見ればモリアンの手は、何か力仕事をしていたかのようにその掌も硬く、思いのほか節も大きかった。修道院にいた間は家事や雑事をこなしていただろうことは想像できたが、それだけでこれほどの手になるだろうかとマティスは思った。
「…マティス将軍」
モリアンの声が急に甘さを帯びてマティスは尻尾が痙攣した。
「緊張していらっしゃるのですか?」
はいそれはもう。
と、弱音を吐いてしまいたくなったが、それではモリアンを不安にさせてしまうのではないかと思い、マティスは言葉を呑み込んだ。
ちなみにモリアン的には緊張をほぐす方法も準備済みなので実は問題はなかったりする。
「聖女様」
「どうぞ、モリアンと呼んでください」
そう言われて、モリアンを名前で呼んだことがまだ無かったことにマティスはようやく気付いた。
「…モリアン様」
「はい」
まだ口にし慣れていないながらも、マティスがモリアンの名を呼ぶと、モリアンは笑顔で応えてくれた。
「私は………その…」
しかし、モリアンに伝えなければと思いながらも、その内容がアレすぎてマティスはわかりやすく口ごもる。
「に、人間の女性との経験が……全く無いとも言えないのですが、その…」
それでも伝えておかねばモリアンの体を傷つけることにもなりかねないため、マティスは言葉を選びつつ慎重に打ち明ける。
「私はこの通り体が大きいもので…」
そしてモリアンは察し力レベルがカンストしているのでマティスの言わんとするところを即座に理解した。
「お気遣いありがとうございます」
マティスが詳細を言いにくい理由も察してモリアンは頷いた。
「実は私も、いろいろな文献から知識は学んだのですが、ティールの方と交わるのは初めてです」
モリアンからそう言われて、マティスは不安なのは自分だけではないのだと気付いた。
「ですから」
モリアンは、マティスの頬にそっと触れた。
「ゆっくり進めましょう。焦る必要などありませんし」
マティスが嫌がっていないことを確かめながら、モリアンはマティスの頬や髪を手で撫ぜる。
モリアンのその手は傷だらけだったが、とても優しく、マティスは胸の奥があたたかくもこそばゆくなった。もちろん尻尾はぶんぶん揺れた。
「ふふ」
マティスの顔に触れながら、モリアンは屈託のない笑顔を見せた。
「やわらかくて、ふわふわですね」
マティスは、自分の聖女がモリアンでよかったと思った。
そしてすぐにマティスは、モリアンの聖配となれた自らの幸福を噛み締めることになる。
[つづく]
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