見知らぬ月明かりー8
ぽつりぽつりと並ぶ電灯の明かりは頼りなく。二人きりでその下を歩いていく。無言の彼女が気になってちらと様子を窺えば、月は自身の左手側にその目を向けていた。何を見ているのかと視線の先を追う。彼女が見ていたのはつまらないものだった。
「あの山がどうかしたのか、月」
民家の奥、そう高くない山。月が睨みつけていたのはそんな、面白みも魅力も価値も何一つない場所。
「え、ああ、その、何となく、なんですけど。封じられているはずの厄災の気配を感じて」
「……厄災?」
指先が震えたのは無意識。それを誤魔化すように、月の手を握る力を強めた。
「はい。封印が弱まって漏れ出してる、わけじゃなさそうなんですけど」
「……なあ、それってもしかして、蛇光神社のことか」
訊ねる声に、何か滲んでしまっていただろうか。多分、いつもと変わらない声を出せていたと思う。
え、と。こぼされた声はわずかに揺れていた。向けられたのは困惑したような顔。その目に全てを見透かされてしまうような心地がしてわずかに視線をずらした。こちらが逸らしたところで向こうは見続けるというのに。
「な、なんで時雨ちゃんがそれを知ってるんですか。もしかしてこの辺りでは有名な話だったり?」
「……まさか。そんなもの知ってるやつなんて居ないよ。私は少し、縁があってな」
もう、関係ないはずの縁が。
「それで、もう少し具体的にはわからないのか。ほら、危ないかどうかとかさ」
「え、まあ、流石に直接目にしたわけじゃありませんから……ただその、この世界に来た時よりも厄災を強く感じるんです。けど本来の厄災よりその存在はずっと小さいというか、ちょっと違う気もするというか、でも放っておいたら危ない気もするというか」
「はっきりしないな。結局何なんだよ」
むむむ、と悩ましげな声を出して月はこめかみに指を当てる。しばらくそうしていたが、結局答えは出なかったらしい。彼女はゆるゆると首を横に振った。
「もしかしたら、封印が緩んだ瞬間があったのかも。その時に厄災がほんの少しだけ漏れ出したのかもしれませんね」
「おい、大丈夫なのか、それ」
「うーん。早いとこ片付けないと、漏れ出たモノの影響で封印が破られてしまう可能性はあります。なので、わりとヤバいですね!」
「いや、なんだってそんな笑顔で元気よく。笑い事じゃないだろうに」
蛇光神社に封じられた厄災。正直に言えば関わりたくはない。だがこのまま無視することもできなかった。きっと、この世界への執着を捨てきれていなかったんだろう。あの子のいない世界なんて無意味だと思っているくせに、どうして。
「……どうにかできないのかよ」
「──できます。大丈夫ですよ、時雨ちゃん」
自信満々に言い切って、月は自身の胸元を叩く。
「だって私に与えられた真の命令は、あの厄災をどうにかすることですから。漏れ出たモノはチャチャっと片付けちゃいます! それさえ何とかすれば、封印は維持されるはず。そうなればとりあえず、おーるおっけー? です!」
多分、と最後に付け足されたような気がするが、月は自信に満ちた表情を浮かべたままであった。
「そう、か。ちゃんとした目的もあったんだな」
「ありますよぅ。だから師匠は私を迎えに来てくれないんです。厄災をどうにかする目処が立たない限りは絶対に……ま、師匠の考えていることはよくわからないのが正直なところですけどね」
そう言って、ようやく月は正面を向いた。
闇に溶けてしまいそうな山から、私は何も感じ取れない。月はわずかに私の手を引っ張って、さっさと歩くことを促してくる。……このまま。このまま、あの山に行くつもりなのだろうか。足取りは不確か。何処に連れて行かれるのか、そこに私の意思はない。
「見にいくのか、神社」
問いかけに、琥珀の瞳が一瞬私を見る。でも彼女はまたすぐに前を向いてしまった。
「行きませんよ。だって」
見えてくるのは二階建てのアパート。月は山がある方には行かず。その足取りは真っ直ぐに家へと。
「時雨ちゃんは、行きたくないんでしょう?」
長い髪の毛が風に揺れていた。明るいくせに、ひどく冷静な声音。真っ直ぐに前を見つめる琥珀の瞳は人形のよう。軽い足取りのままで、月はアパートへと近づいていく。
は、と。漏れた息が、いやに熱く感じられた。
「おい。勝手に一緒に行くことにするなよな」
きつく、繋いだままの手を握りしめる。自分の手に汗が滲んでいることから目を逸らしたままで。
◇
「う、わ。時雨ちゃん、片付けはちゃんとしないと駄目ですよ」
入れたのは、やっぱり間違いだっただろうか。だが彼女の指摘に反論はできない。玄関を入ってすぐ、廊下には空になったペットボトルや畳んでもいない段ボールが散乱していた。
「いいから、早く入れ。あ、そこの部屋には入るなよ。あと奥の、私のじゃない方の部屋にも入るな。他は好き勝手見ていいから」
はーいと元気よく返事をして、月はようやく家の中へと足を踏み入れた。霊体だから関係ないだろうに、きちんとブーツを脱いで。
「おお、これは酷い」
居間の出入り口で立ち尽くす月を置いて中へと入る。酷い、という彼女の言葉は何も間違ってはいない。ここはここで、脱ぎ散らかした服や栄養食品の箱がそこら中に放置されているのだから。
「文句があるなら追い出すぞ。嫌ならさっさと出ていけ、って、おい!」
どん、と。身体に勢いよく飛びつかれて転びそうになる。それを堪えて顔を下ろせば、そこには満面の笑みを浮かべた少女が居た。道具なんかでも、カミサマなんかでもない、ただの少女が。
「嫌ですー。私はここで暮らします。だから、これからよろしくお願いしますね、時雨ちゃん!」
目の前に居る少女が人間ではないことくらい、わかっている。溢れ出す魔力は見えているし、彼女が誰にも見えない存在であることも、もうわかっている。それでも。
「……師匠が迎えに来るまで、だからな」
それでも、その頭に手を置いてしまった。ただの女の子と変わらないと、思ってしまったんだ。きっと、それは間違いなんだろうに。
「はい!」
頷いて、月はとびきり嬉しそうに笑う。消したくない罪悪感は、それだけであっという間に私の手から逃れてしまう。だってその笑顔は少しも人形じみてなどいなくて、そこにはもう、寂しさは感じられなかったから。
だから、あの子も許してくれる。きっと。