見知らぬ月明かりー7
何度この道を歩けば良いんだろうか。通勤のためじゃなくてあの子のために。私自身のために。何度。
夜の学校までたどり着いたところで、口からこぼれ出たのは重たいため息。別にこの行為を嘆くものじゃない。そう言い訳をしても、吐き出した息を責める言葉が頭の内側を殴り続ける。何を責めれば、誰を責めれば、その答えは、いつになったら。
「神宮さんが殺されたのはいつでしたっけ」
殺された、なんて。簡単に言ってほしくない。だってこれはただ悪夢が続いているだけなのだから……そんなもの、自分を保つためだけの嘘。そうであってほしいという願望。現実は、本当は。
「時雨ちゃん?」
「……十月の終わり頃、文化祭の最終日の夜だ」
なんとかそれだけ口にして、学校に背を向けた。今日は何往復するだろうか。何も見つからないとわかっているのにやめられない。犯人が現れるんじゃないか。凶器が落ちているんじゃないか。あの子が、姿を見せてくれるんじゃないか、って──そんなことありえない。わかってるよ、そんなの。それでもこの道を彷徨い続けることを、まだしばらくはやめたくなかった。
「それ以前にこの近辺で殺人事件や不審者情報はあったんですか? それ以降、でも」
「いいや、ない。これから先のことは知らないがな」
「じゃあ無差別かどうかもわからない、ってことですか。ま、気まぐれに一人殺して満足する人間も居るでしょうけど」
「……っ、お前、さっきから何なんだよ。殺されたとか殺すとか。そんなこと関係ないだろ、だってあの子は──!」
そこで、動けなくなる。足も口も、何も。
──あの子は死んでいない。殺されてなんていない。
いっそ、そう言い切れたのなら。そう、心から信じられたのなら。
「……何でも、ない」
言葉は続かず、振り向くことすらできずに歩き出す。背後に残る気配が、だんだんと私から離れているように感じた。
「……その、ごめんなさい、時雨ちゃん」
呟かれた声に滲むのは罪悪感。それでも振り向けない。謝罪さえも、あの子が死んだと突きつける凶器にしか感じられなくて。
「……ごめんなさい、わからなくて。人間、できなくて」
そう口にした月は、どんな顔をしていたんだろうか。
言葉が途切れて、後ろを歩く気配もやっぱりなくて。……置いていけばいい。このままお別れだって、それでも構わない。なのに足は止まる。後ろをついてくる彼女を待つみたいに。だけど気配は薄いまま。我慢ならずに振り向いた。
「……おい」
俯くその瞳に、いつもの輝きはなく。明るいのに人形めいた笑みすらも、今はその顔に浮かんでいない。
「おい」
呼びかけにも反応せず。ただ、琥珀の瞳が揺れていた。水面に映る月のように。
「おい、月」
ああ、わからない。私だって、わからないんだよ。他の人のことなんて、自分のことさえも、何も。
開いた距離はほんの少し。すぐに迎えに行ける距離。だから。
「ああ、もう」
だから、わざわざ歩み寄る。意味もないのにそばに行って、その顔を見下ろした。月はようやく私を見る。恐る恐るといった様子で。薄桃色の唇が開きかけて、でも、言葉が見つからないのかまた閉じてしまう。
「何だよ。そんなに申し訳ないと思ってるのか、お前は」
「……はい。だって、その、嫌な思い、させてしまいましたし」
「今更だな。この二、三日はお前のおかげでかなり疲れてるんだよ」
「ぐ、その、ごめんなさい」
ああ、疲れた。本当に疲れた。
「久しぶりだったからな。誰かとまともに会話をするなんて」
誰かが無遠慮に話しかけてくるなんて。誰かが、隣に居るなんて。
「なあ、月。お前、家事はできるか」
何の脈絡もない問いかけに月は首を傾げる。
「でき、ます。その、生活に必要なことは一応、一通り師匠に教わりましたから」
「そうかよ。なら、さっさと帰るぞ」
掴んだ。人の温度のないその手を。掴んだままで歩き出す。もう私を待つ人間の居ないアパートへと。
「え、え、ちょ、時雨ちゃん」
「何だよ。申し訳ないと思ってるんだろ。ならそういうのは態度で示してもらわないと。だから、そう、だから」
随分と無理のある言い訳だと自分でも思う。でも他に思いつかなかったんだ。
「帰れるようになるまでうちで家事をしてくれ。私は、その、苦手……いや、お前のせいで疲れすぎて家事ができないからな」
「──は、はい、はい!」
頷く声にはちゃんと煌めきがあった。掴んだままの手を強く握りしめる。その手にはやっぱり温度はなくて、ただ、不思議だった。誰にも見えないはずの彼女に私だけがこうして触れられることが。体温のないはずの手に、どうしようもなく温もりを感じてしまっていることが。