見知らぬ月明かりー6
職員室から出てきた女が私を見た。納戸色の瞳は秋の湖。浮かべられたのはあからさまな作り笑い。視界が揺れたのはきっと、そんなもの、少しも見たくなかったから。
後ろだけが少し伸びた黒髪が静かに彼女の肩に寄り添っている。水色のシャツには皺一つない。また、彼女の顔が目に入る。あの日から変わらぬ笑顔が腹立たしくて仕方がない。なのに何も言えなくて、何かを言いかけた彼女から顔を逸らす。握りしめたままのワークは、まだ一年も使われていないのに随分と汚れていた。
「む。時雨ちゃん、この人のこと朝からずっと無視してませんか?」
職員室の扉に手をかける。月の言葉もあの女が何を言うのかも、どうだっていい。どうだっていいはずだった。
「天宮先生」
なのに、静かなその声に手が止まる。だけど振り返ることができない。彼女が今どんな顔をしているのか、見るのが怖かった。
「神宮さんの荷物、そろそろ取りに来てくださいね。美術室で、待ってますから」
「────」
なんて言葉を返したのか、自分でもわからなかった。きっと言葉になんてなっていなかったんだろう。あの女の返事は、聞こえなかったから。
「…………」
職員室の中は暖かすぎて息が苦しかった。さっさとワークを置いて立ち去ろうとしたところで、隣の席に目が吸い寄せられる。あの女の机。透明なデスクカバーの下には小さな紙切れが挟まれていた。
「……なんで」
あの子の字だった。書いてあることはただの伝達事項。もうとっくに役目を終えたそれが、意味もなく残されていた。だからわからなくなる。荷物を取りに来いと言った彼女が、どんな気持ちでいるのかが。平気そうに毎日を過ごしているくせに、作り笑いしか向けなくなったあの女が。
「なんで、っ」
足早に職員室を出る。言葉にならないこの感情をぶつけてやりたかった。そこに正当性などないとわかっていながら。けれど飛び出した廊下にはもう誰の姿もなく。冷えた風が頬を撫でる。ああ、そうだ。暖房のせいだったんだろう、頭が熱くなっていたせいだ、こんな馬鹿なことをしようとしていたのは。よかった、いなくなってくれて。今日はもう顔を合わせられない。合わせたくない。合わせてしまったら、私は。
琥珀の瞳が、私の顔を覗き込んでいた。
「……なんだよ」
廊下の端へと目をやる。逃げるみたいに。視界には取り残された埃たち。掃除の時間はきちんとあったはずなのに。
月はまだ、私の顔を覗き込んだまま。
「美術室、行かなくていいんですか」
手が震えたのは一瞬。急いでそれを上着のポケットに突っ込んだ。どうせバレやしないと思っているのに。
「行かないよ。行く必要もないしな」
「え、でも、荷物を取りに来いって言われてませんでした? 神宮さん、でしたっけ。それってもしかして──って、ちょっと時雨ちゃん」
背を向けた。こんな、逃げてばかりじゃないのか、私は。でも美術室に足は向かわず、月にも目を向けられず。結局、体育館へと歩き出す。部活があるんだから仕方ないと、そう自分に言い訳をして。
「もう、無視しないでくださいよ」
「無視なんてしてないだろ。ただ、お前には関係ないだけだ」
「そうかもしれませんけどぉ」
あっさりと認めた月はそこで言葉を止めてしまう。単に興味が失せたのか、それとも優しさからなのか。どちらでも構わない。どっちだって、私には関係ない。
「……その、ところで、あの人。さっきの女の人、なんて名前なんですか?」
「なんだよ、急に」
「べ、別に、ちょっと気になっただけですー。….…それで、誰なんですか、あの人は」
「誰って、天音先生だよ。天音光先生」
あまねせんせい、と。呟かれた声に、見逃せない色が滲んでいた。多分それは、誰かの声に宿っていたものによく似ていたんだ。
「美術室ってことは、美術の先生、なんですよね」
だからだろう。どうしたって見逃せなくて、足を止めてしまった。すぐ後ろ、私と同じように足を止めた彼女の横顔が目に入る。琥珀の瞳は夕陽に照らされてキラキラと輝いていた。その輝きは先ほどのものとは違って、人の瞳に宿るもの。その目が見つめるのはあの女が立ち去った方向。真白な肌にはわずかな桃色。道具がする顔じゃない。どこにでもいる、普通の女の子と変わらない。
それは。
「天音先生が、気になるのか」
ばっ、と。勢いよく月の顔がこちらに向けられる。ただでさえ大きな目がさらに大きく見開かれていた。そ、と。笑っているんだか笑いたくないんだかわからない表情。
それは、いつか誰かが見せた顔と同じだったんだ。
「そんなわけないじゃないですかぁ! 初対面ですし、何も知りませんし、だから、そんなわけないっていうかぁ!」
「……ふぅん」
背を向ける。自分が抱く感情の正体もわからぬままで。外へと通じるガラス戸を開けば、冷たい風が勢いよく吹き込んできた。
「別に気にしてないですし、気になるとかないですから。っていうか時雨ちゃんが天音先生に冷たすぎるだけだと思いますよ。今朝も挨拶無視してたし、さっきだって──」
「お前も、天音先生が好きなんだな」
「だからちが──も?」
呟きは無意識。ひゅっと掠れた音に、それが自身の喉が出した音だと遅れて気がついた。
「も、ってなんですか、時雨ちゃん」
「あ、別に、何でもない。言葉を間違えただけだよ」
そう。間違えただけ。ほんの少し、言葉を選びを間違えただけだ。それに月があの女のことを好きになろうが、そんなのは私には関係のない話じゃないか。
『新しい先生? まあ、穏やかで良い人だと思うよ。まだそんなに話してないからよくわからないけどさ』
ボールの跳ねる音が鼓膜を震わせる。
『お姉ちゃん、天音先生と席、隣なんだよね。どんな人なの? あ、いや、ほら、顧問なわけだし、どんな人かくらいはわかっておきたいっていうか。それだけ。それだけだから』
瞼を閉じるたび、声が聞こえる。今はもう、聞こえないはずの声が。
『べ、別に気にしてないから。気になってる、って、そりゃ顧問だからで。だから深い意味があるわけじゃないんだってば!』
ボールの音が、彼女の声を掻き消すように鼓膜を殴る。体育館から漏れ出るその音に、何もかもを弾き飛ばしてほしかった。