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見知らぬ月明かりー5

「……い。先生、天宮先生ってば」


 とん、と。背中に与えられたのは軽い痛み。違和感に振り返れば、立っていたのは一年の女子生徒。ワークを片手に私を見つめる彼女の目に混じるのは非難の色だった。


「あ、すまない、何か用事だったか」


 また、やってしまった。空気に滲むのは橙色。教室からは吹奏楽部の練習の音が聞こえてくる。帰りのホームルームはとっくに終わっていたようだった。


「用事だったか、じゃあないですよぉ。これ、提出できてなかった宿題です。放課後まで出せなくてすみませんでしたぁ」


 中学一年生の二学期ももうすぐ終わるというのに、目の前の生徒には小学生の幼さがまだ残っている。それを咎めかけて、でも、ぼんやりとしていた私に何を言う権利もないことに気がついた。


「天宮先生?」

「ああ、いや、次からは気をつけてな」

「はーい。それじゃあまた明日ね、先生」


 元気な足音が遠ざかっていく。女子生徒は駆け足で廊下を曲がっていった。頭が重たくて仕方がない。今の子の名前もクラスも思い出せず……なら、辞めるべきなんだろうか。まともに仕事もできていないなら、いっそ、いっそのこと、全部やめてしまえば。


「時雨ちゃん、ぼんやりしすぎじゃないですか?」


 でも、煌めきの宿った声が私を掴んだ。鬱陶しいのに、振り払えない声が。いやにはっきりとした視界の中、隣に立つのはわずかに眉を寄せた月。


「学校の先生ってそんなんでいいんですか?」


 良いも悪いも言わずに歩き出す。誰にも見えないそれを、ただの幻覚として処理してしまいたかった。だけど彼女は私の意思とは無関係に喋り出すんだ。昨日も、今朝も、今だって。


「人に何かを教える人間はしっかりしてなくてもいいけど、教える相手には誠実じゃなきゃいけないよ、って。師匠が言ってましたよー」

「お前の師匠はお前に誠実なのかよ」


 黙っていられず言葉を返せば、月は小さく笑みをこぼして、また、私の隣へと並んだ。人じゃない。誰にも見えない。存在しないと思いたい。でも。


「全然誠実じゃないですね。嘘はつかないけど、大事なことは言ってくれませんから」


 でも、体温なんてないそれに温もりを感じてしまう。だから無視ができない。夢幻として処理してしまいたい彼女に、一人の人間のような温度を感じてしまうから。


「……それで、なんで学校に着いてきたんだよ。昨日の晩だってそうだ。わざわざ家の外で待ち伏せしやがって。もう知らないって言っただろ」

「だって師匠の命令ですもん。私は時雨ちゃんと一緒に居ないといけないんですから」

「なんでお前に誠実じゃない師匠の命令を聞く必要があるんだよ。お前の好きにすればいいだろうが。どうせ師匠はここには居ないんだ。なら何したって向こうはわからないだろ? ほら、好きにしていいじゃないか」


 教師がこんな投げやりなことを提案するのはいかがなものかと思わなくもない。しかし冷静な思考を続けるよりも先に覚えたのは違和感だった。


「何言ってるんですか、時雨ちゃん」


 月がこてんと首を傾げた。私の言っている言葉の意味がわからない、とでも言いたげに。良い子ならば自然な反応のはず。なのに、なんだか。


「命令を聞かなかったら、私が成り立たないじゃないですか」


 いや、明らかに、歪だった。


「私は所詮道具ですから。命令されたことを聞くだけです」


 軽い足取りで月は一歩を踏み出す。足を止めてしまった私を置いて。


「道具、って、お前はカミサマ、なんだろ?」


 振り返ったその顔は人間のもの。けれどその瞳は人形のよう。人を惹きつける力を持ちながら、在るはずのものがない虚しさ。


「はい。でも、カミサマなんて所詮はこの星を維持するための道具でしかありません。私はその最たるもの、ただ星に害を為す存在や世界を消す破壊装置。だから、ね、時雨ちゃん」


 琥珀の瞳が輝いている。枯れ落ちていく夕焼けの中、それでも強く光を放つ。


「私は、世界を消すための道具なんですよ」


 浮かぶ笑顔に宿る感情を、私は読み取れない。ただ、その笑みはやっぱりあの子のものに似ている気がした。笑っているのに笑っていない、その笑顔が。


「……ふん、馬鹿言うな」


 だから、放っておけなくなる。どうでもいいはずなのに。


「お前の何処が道具だよ。私の話も聞かず好き勝手着いてきやがるくせに」

「ったあ! 叩くことないじゃないですかぁ」


 恨めしそうに私を見つめる瞳に抱いたのは安堵。強い光も人形じみた瞳も、どこか歪で寂しげな笑顔も、もうそこには存在しない。今目の前で頬を膨らませる月は、一人の少女でしかなかった。


「ほら、早く行くぞ。部活があるんだから」

「えっ、まだ帰れないんですか!? 労働時間長すぎますってぇ」

「煩い。着いてこないなら置いていくぞ。私はどっちだって良いんだからな」


 そうして踏み出しかけた一歩が、一瞬止まる。それでも歩き出すしかなかった。ため息がこぼれたのは無意識。手にしたワークを強く握りしめる。職場が嫌いなわけじゃない。この学校が嫌だとか、そんなこと思っていない。……むしろ、離れたくないくらいだ。それでも職員室に戻ることは、あの部屋で過ごすことだけは躊躇ってしまう。逃げたく、なってしまう。


「あ」


 でも、どうしたって避けられない。あの女と顔を合わせることを。ほら、今みたいに。今じゃなくても、いつだって。

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