月光に手を伸ばしてー12
見上げた空には黒点。脈打つ様は心臓のよう。ソレが動くたび、ごぽり、ごぽりと黒い泥がこぼれ落ち続けている。アレを閉じなければ、月はきっとこの世界を消さなければならなくなってしまうのだろう。
「月」
だけど。
「私が」
そんなことは。
「アレを閉じるよ」
絶対にさせない。
だって誓ったから。もう誰も殺させないって。罪なんて背負わせないって。
そっと、人形から離れて地面に手をつく。
「なっ、本気ですか!? 時雨ちゃん、もう魔力ほとんど残ってないじゃないですか。絶対足りませんよ!」
「だとしても、お前には無理だからな。ただ魔力を流し込めばいいってもんじゃないんだよ。構造を知ってなきゃ、直すもんも直せないだろうが」
ぽきりぽきりと音が鳴り続けていた。カキツバタたちが折れていく。空に浮かぶ黒点はその大きさを増していく。溢れる泥が清らかな水を汚していく。このままじゃ、間に合わなくなる。
触れた地面の冷たさに身震いした。怖いからじゃない……今更、怖くなんてない。
「ちょっと、時雨ちゃん!」
「──魔力器官、稼働、っ」
魔力は既に底を尽きかけている。それでも生成を無理矢理に促せば、襲いかかるのは熱と痛み。内側で暴れる魔力に骨はぎちぎちと軋みを上げる。走り回るソレのせいで血管や神経が悲鳴を上げる。それでもやめるわけにはいかなかった。
「闇に呑まれた青空よ、闇に堕ちた太陽よ」
流し込む。生成した魔力を片っ端から。月の言っていた通り、あくまでも結界が綻んでいるだけ。だから、直せる。魔力を込めて必要なところを修復してやれば、厄災を封じることはできる。でも。
「沈め、沈め、沈め──」
汗が頬をつたって落ちていく。冷たすぎるそれは皮膚を切り裂くナイフのよう。痛い。頬が痛む。目の奥が痛む。心臓が痛む。詠唱が途切れそうになって、それでも唇を動かした。
「覆い尽くすは、青のは、な、っ、ぐ」
じわりじわりと、周囲の水が清らかさを取り戻し始めていた。折れていたカキツバタたちはゆっくりとその姿を元に戻し始める。だけど。
「く、そ」
黒点はまだ消えず。
──嗚呼、これ、手を抜いたら駄目だ。魔力全部、自分の命ごと渡さないと無理だ。じゃなきゃ、本当に足りない。
口元が緩んだ理由はわからない。でも、仕方ないと思った。何のために誰を殺すのか。
……あの子のためなら、私は、自分だって。
「月」
その覚悟は、できているとは言い難い。それでもあの子へと目を向ける。笑みを浮かべたままで。
「お前と過ごせてよかった。……ありがとな」
「は────ちょ、ちょっと時雨ちゃん、死ぬつもりですか!?」
ぐいと腕が掴まれる。それを無視して、封印に魔力を流し込み続ける。月はそんな私を邪魔するように何度も何度も腕を引っ張った。
「駄目です、そんなの、絶対に駄目なんですから! だって、だって──」
それを無視して、ありったけの魔力を回す──回そうとした。でもそうする前に封印との接続が切られる。私の意思に反して。
「な」
襟元を掴まれて立ち上がらされる。降ってきた声は冷たくて、だけど、私とは違って覚悟に満ちていた。
「あなたがそれをする必要はありません、時雨」
眉間に皺を寄せた祖母が、私を見つめていた。いつもと少しも変わらぬ表情で。いつものように、凍りついた瞳をして。
なにをと言う隙も与えてくれない。ぽいと地面に放り投げられて、途端、青い光が周囲を照らす。
「……接続開始。闇に呑まれた青空よ、闇に堕ちた太陽よ、沈め、沈め、沈め──」
膝をついた祖母の頬から、ぽたりと水滴がこぼれ落ちた。ぽたり。ぽたり。髪を、肌を、着物を雨のように濡らす汗。それが地面へとこぼれ落ちるたび、光は強さを増していく。
「覆い尽くすは青の花。闇夜の上で咲き誇る」
水は清らかに。カキツバタたちは力強く咲き誇る。見上げれば、黒点はみるみる小さくなっていっていた。うまくいく。これなら、全部──全部うまくいくなんて、そんなはず、ないのに。
「──は、っ、──っ!」
その息を聞いた。その瞳に宿る色に気がついた。だから、理解した。理解してしまった。この女は。
「……おい。おい、死ぬつもりか、ババア!」
この女は、本当にその命を捨てるつもりなのだと。
薄い唇が弧を描く。紅が塗られているのに、それでもその唇からは色が抜け落ちているように思えた。
「は、っ、誰かがやらねば、その女に、世界を消されてしまうでは、ないですか」
そっと、苦しみに歪んだ顔がこちらに向けられる。瞳は虚ろ。氷はとっくに溶けて消え去って、滲む感情は剥き出しのままで。
「わたくしはわたくしが生きているこの世界を、守る。ええ、それが、今ここに生きるわたくしの責務。……いいえ、いいえ、責務、などではありませんね」
知らない。そんな感情。
初めて知った。お祖母様にそんな気持ちがあったなんて。
「ただ、そうしたい。義務ではなく、責任感からでもなく、ただ守りたいのです。だって、この世界には」
浮かべられたのは柔らかな笑み。まるでただの老女のような、愛しい孫を見つめる祖母のような、そんな、彼女が浮かべるはずのない笑顔だった。
「時雨、あなたがまだ、生きているのですから」
光が周囲を呑んでいく。全てを見えなくしてしまう。待て、と。漏れた声はいやに弱々しくて、それが自分の出した声だなんて認めたくなかった。あの女に向けて出した声だなんて認めたくなかった。だって今のは、私の声じゃない。私の声なわけがない。幼すぎる。そこらの子供と変わらない声だったじゃないか。だから、違う。そんなわけない。そんなわけ、ないのに。
「その闇未だ消えずとも、青はあなたを慰める。青空には生命を、太陽には月を、その眠りに、安らぎを──!」
見てしまって、もう、わからなくなる。
彼女の笑顔を。最初で最後の、祖母としての微笑みを。これまでただの一度も向けてくれなかった笑みを。
「──どうか、幸せに」
それが、最後。
光が全てを呑み込んだ。眩しさに耐えきれず目を閉じる。瞳を焼かれる心地は一瞬。戻ってきた暗闇に瞼を開ければ、もう、終わっていた。
「……クソババア」
紫の花弁が風に揺れていた。月の無い夜。周囲を照らしていた青い光が空気に溶けていく。倒れ伏したその身体はもう動かない。祖母は、静かな笑みを浮かべていた。とびきり穏やかな笑みを、まるで、幸せな夢でも見ているかのように。




