月光に手を伸ばしてー11
ぱりん、と。
終わりを告げる音は、あまりにも軽やかで。
「──ウ、イ」
その手がウイに伸ばされる。枯れ枝のような指が自身が作り出した人形へと伸ばされる。だけど触れられないままで、少女は地面へと崩れ落ちた。
「────!」
その顔が目に入る。大きく見開かれた目からは今にも瞳がこぼれ落ちてしまいそう。右手は強くその口元を押さえつけている。声にならない声が、指と指の隙間から漏れ出していた。びくりびくりと身体が震えている。震えるたび、ごぽり、と。黒が、溢れ出していた。
「──お、ね──っ、天宮、時雨」
悲鳴を噛み殺しながら、それでも彼女は言葉を紡ぐ。口の端からはどろりと黒が流れ落ちていく。苦しげに歪められた顔が私を見た。目が合う。硝子玉の瞳が歪む。
「月と、約束、したんでしょう」
やめろ。
「なら」
やめてくれ。
でも、彼女は笑う。
「今度こそ、ちゃんと、殺してよね」
今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでも涙一つこぼさずに笑ったんだ。
ぐらりと大きく身体が揺れて、ウイは地面へと倒れる。それきり、彼女は何も言わなくなった。
「ウイ」
反応はない。体はぴくりとも動かない。
「ウイ」
反応はない。初と同じ声は、もう返ってこない。
「ウイ!」
走り出したのと同時だった。冷たい何かが頬を掠めたのは。
「は……」
ゆらりと立ち上がる。
ソレはもう、ウイではなかった。
影。その身体はまるで影のよう。色はなく黒だけ。困ったように寄せられるはずの眉も、控えめな笑みを浮かべる口元も、少し悲しげな瞳さえも消え失せていた。
ソレはもう、ウイじゃなかったんだ。
「時雨ちゃん、下がって!」
跳ぶ。影が夜空へ跳び上がる。
その背後に何か、見えてはいけないものが見えた気がした。
「なんだよ、アレ」
神社の拝殿。その真上に浮かび上がるのは小さな黒い穴。本当に小さな穴だ。かすかに脈打つソレは少しずつ広がっている。
「ぐ、こ、のぉ!」
ウイだったモノが月を攻撃するたびに、少しずつ、確実に。
「時雨ちゃん、早くしないとあの穴から厄災が、っ、ぐ、ぬぬ、もう、しつ、こい!」
「厄災が、って、どうしたらいいんだよ!」
金属と金属がぶつかるような音が響いた。大鎌は軽い動作で振るわれる。それに、弾丸のように黒い影が飛びこんでくる。月を狙って。ウイの面影なんて何処にもない。影のような色をした身体は人の形すらもしていなかった。手足は獣のように鋭く。唸り声は嵐の夜のよう。動作には理性など一ミリも感じられない。
「多分、結界が綻んで封印が弱まってるんです! だから魔力さえ流し込め、ばぁ、っ」
また、音が鳴る。
多分、殺せる。月ならアレをさっさと殺してしまえる。なのに月は殺さない。ウイだったソレを、殺そうとしない。
「どうしますか、時雨ちゃん」
琥珀の瞳が私を見た。ほんの一瞬だけ。そこに浮かぶ色を見た。罪悪感か哀れみか、あるいはその両方だったのか。
「私が」
どちらでも構わない。ただ今目の前に居る彼女が私の知る月であると知れた。それだけで、十分だった。
「いや、いい」
キッパリと、首を横に振る。
「私が、殺すよ」
ならば、約束を守らなければ。私は確かに月と約束をしたのだから。あの子を殺すと。
呆然と立ち尽くしていた祖母に手を出す。揺れ動く薄水色の瞳が私を見た。
「ナイフを寄越せ、ばあさん。アレなら中身だけを殺せるんだろう」
外側を残そうとしているのは未練からか。弱さからか。そのどちらでも結末は変わらない。変わらないと知っていながら、それでもナイフを求めた。
「アレは私が殺す」
「……本気ですか」
問いかけに唇が歪む。何を馬鹿なことを。
「本気に決まってるだろうが。そうしなきゃ何も守れない」
あの子のことも、あの子が暮らしていたこの世界も、何より、あの子が好きだった人のことも。
「それに、あの子と約束したからな。私が殺すって」
「────」
おずおずと差し出されたそれを乱暴に奪い取る。手にした凶器の冷たさのせいだろう、身体が小さく震えた。その寒さにナイフを手放したくなる。でも、強く握りしめた。私が初を殺すのだと、そう自分に言い聞かせて。
「月、援護は任せた!」
魔力の残量は少ない。あとで厄災を鎮めることも考えれば、ここで魔術は使いたくなかった。
地面を蹴る。降り注ぐ爪も黒い泥も全て月が振り払ってくれていた。だが影は好き勝手に空を跳ぶ。手が届くと思ったところで呆気なくかわされてしまう。
「は、そうだよな、殺されるのは、嫌だよな」
跳ぶ。屋根から屋根へと。跳ぶ。空気を蹴って。跳ぶ。カキツバタを踏み荒らして。でも追いかけっこはいつまでも続かない。
「いちいち、逃げ回るんじゃ、ねえ、です、よ!」
地面を貫いて現れたのは光で編まれた鎖たち。それが影の足へと巻き付いた。
「時雨ちゃん!」
「ああ。ちょろちょろと逃げ回ってくれやがって、覚悟しろ、厄災──!」
がぱりと影が開かれる。そこに見えたのは鋭い刃。恐怖は一瞬。このままナイフを差し込めば腕ごと引きちぎられるという予感と恐れ。でも飲み込んだ。飲み込んだのはきっと怖いという感情だけではなかったけれど。
落とす。その切先を。落とす。その中心へと。
「────!」
ナイフを刺した。
初を殺すために。
「──すまなかった、ウイ」
びくりと大きく震えた影。その身体から力が抜けていく。鋭い歯が一瞬私の腕に食い込んで、でも、すぐにそれは姿を消した。影はじわりじわりと抜け落ちていく。黒はゆっくりと塵になって空気へと溶けていく。元の彼女へとその姿が戻っていく。
「だけど、ありがとう。お前が居てくれたから、多分、私は」
夢から覚めることを選べたんだと思う。
月だけじゃきっと駄目だった。
月が居て、ウイが居て、二人が居たから夢の続きを見られた。二人が居たから悪夢を忘れられた。そうして、お前たちが私を無理矢理起こしてくれたんだ。いつまで夢に浸ってるんだって。さっさと起きろって。
それは痛くて悲しくて、本当はもっと夢の中に居たくて、本当はずっと三人で暮らし続けていたくて。でも、終わらせることにした。
滲む視界の中、もう動くことのない人形が目に入る。中身だけを殺したおかげだろう。傷は一つもなくて、その姿はあの日アスファルトの上に倒れていたあの子によく似ていた。
それは悪夢ではなく、変わらぬ目の前の現実。胸の痛みは後悔と罪悪感。それでも飲み込んだ。選んだのは自分だから。
ネックレスを握りしめたのは無意識。縋ったそれは冷たくて、だけどそれがあれば前を向けると知っていた。




