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月光に手を伸ばしてー6

「っ、ウイ!」


 気がつけば飛び出していた。多分、わかってしまったからだろう。今空に浮かぶ彼女が私の知る月ではないのだと。


「え、ちょ、な、っ!」


 強い光が瞳を焼く。燃える。燃やされる。閉じた瞼の裏側で、蘇るのはあの日の景色。燃え盛る炎。転がるいくつもの死体。その中で、苦しげに自身を抱きしめていたあの子。


「ぐ、うっ、ウイ!」


 点滅する視界の中、それでもウイの姿が見えた。驚きからか目を丸くして顔を引き攣らせたその表情が。

 息を吐く間もなく襲いかかるのは寒気。跳んだ。ウイを抱き上げて、身体に魔力を回して、方向も考えずにただ直感だけで。


「っ、ぶな」


 十二月の夜。身体が震えるほどの寒さが世界を満たしているはずだった。だが今この場は熱に満たされている。周囲には何もない。傷も、炎も、何も。けれど確かに熱があった。あの日を思い出させるほどの熱が。頬を撫でる風が、少し焦げたような臭いが、何もかもが私にあの日を思い出させる。息が浅くて苦しい。瞳が乾きすぎて痛む。目の奥が熱くて堪らない。心臓が軋みを上げている。もう無理だって叫びたかった。それでも。


「ウイ、時雨、走りなさい! 神社に!」

「っ」


 立ち上がったのは無意識。誰に背を押されたわけでもない。何を察したわけでもない。それでも立って祖母の言葉に従う。今はそうするしかないとわかっていた。

 ウイを抱き抱えたままで走る。空に浮かぶ満月のせいだろう。夜だというのに真昼のような明るさが降り注いでいた。けれど降り注ぐものはそれだけではなく。


「こ、の」


 脇腹を掠める。熱い何かが。髪をわずかに焦がす。炎に似た何かが。空から落ち続けるそれは光。闇を切り裂き空気を切り裂き、肌さえも切り裂いていく。それは現実を壊さない。なのに現実を生きる私たちを攻撃し続ける。


「は、っ、ぐ、クソ!」


 それを必死に打ち消す。打ち消すだけで精一杯。とてもじゃないが反撃などできるものか。両手はウイで塞がっている。振り返るだけの余裕もない。見えぬまま、感覚だけを頼りに詠唱も唱えず、構えることもできずに魔力を撃ち続ける──まともに戦えるわけがない。詠唱はともかく、構えに関しては魔術を安定させるためにはどうしたって必要なものだ。それができない状態で、一体どうしろと。


「時雨、早く!」

「だあ、もう、クソババア、んなことわかってるよ!」


 坂道を駆け上がって鳥居をくぐり、楼門の中へと飛び込んだ。カキツバタが揺れる。祖母は拝殿の前で立ち止まる。何をと問いかける暇もない。

 落ちた。雷が。楼門の上へと。

 視界を塗りつぶすのは白。何も見えぬまま、それでもウイを抱きしめる。焦げた臭いと強い熱に、一瞬身体が震えた。視界は未だ白のまま。その中で、線香の香りがすぐ目の前からした気がした。


「──っ」


 轟音が響いて白が消える。瞳はまだ正常に作動せず。それを魔力で叩き起こす。

 黒紫の羽織と長い薄茶の髪の毛に覆われた背中が私たちの前に立っていた。今の祖母には明らかに余裕がない。焦っているんだって、その背を見るだけで理解できてしまった。そんなこと、これまでただの一度だってなかったのに。

 空に浮かんでいたはずの月は楼門の上に立っていた。わざわざ私たちを追いかけてきたらしい。何を言うこともなく、その身体には傷一つないまま。琥珀の瞳は依然としてウイだけを見つめているようだった。

 そっと、ウイを下ろして私の背に隠す。せめてその視線からは庇ってやりたかった。まるで満月がこちらを認識しているような、その目からは。

 銀色の刃が光る。その輝きに、細すぎる身体が小さく震えた。それでも祖母は一歩も引かず。


「ええ、その身体は世界の裏へと落として、厄災と共に封じて差し上げましょう。この身と引き換えにしてでも──!」


 稲光が空を駆ける。ぽろぽろと夜の欠片がこぼれる空を、闇を切り裂き、月の光に抵抗するように落ちてくる。でも、届かない。


「────」


 腕の一振り。月はその場から動かず、ただ腕を振るうだけで自身に降り注ぐ稲妻を全て打ち消した。手にした鎌は未だ使われず。静かに差し出された手がわずかに動かされて、たったそれだけの動作で光が落ちる。いくつもの光が、まるで流星群のように。


「ふ、う、っ」


 けれど、それもまた届かず。

 空から堕ちる光を、祖母はたった一人で塞ぎ続ける。全てを、一人で。

 ──無理だ。

 防ぎ続けるなど無理な話。カミと人の差は誰が見ても明らかだ。祖母は小さな声で詠唱を繰り返し、魔術を扱うためにその腕を伸ばし続けている。だが月はどうだ。確かに彼女も構えはとっている。しかしその唇は全く動いていない。その上漏れ出る魔力の量は少しも減っていない。埋められない。たとえ私が加勢したとしても、この差を埋められるわけがない。……本当に?


「いや、無理、だろ」


 無理だ。相手は無尽蔵の魔力を持っている。無理だ。いくら祖母が優れているとはいえ、一人では叶わない。無理だ。私が加勢して、いや、一度、一度だけなら落とせる。その自信はある。だがそのあとは? たった一度撃ち落として、それで何になると──ポケットに入れたままの温もりが、その存在を主張しているような気がした。


「なあ、魂が戻れば落ち着くんだろ。だったら」


 この温もりを彼女に返せばいい。それだけで全てが丸く収まる。そんなことは祖母だってわかっているはずだ。わかっているはずなのに、祖母は。


「──ですが、そうしてしまえば初は取り戻せないではないですか!」


 泣き叫ぶような声だった。それだけは了承できないと拒絶するような声だった。


「月を取り戻せば、ええ、確かにこの事態は簡単に収まるでしょう。ですが初はどうなるのですか。初を取り戻すことはできなくなるではないですか。その魂がなければ、本当の意味で初を生き返らせることはできない。あの子に、人としての時間を、生を返すことができないのですよ!」

「──なん、で」


 その先に、何を続ければいいのかわからない。頭に浮かぶのはいつかの光景たち。

 一度もあの子に微笑まなかった──この女は、誰の前でもにこりともしなかった。私の前でも、両親の前でも、実の妹の前でさえも。

 一度もあの子を気にかけなかった──あの家に居た頃も、あの家を出た後も、ずっと。電話だって滅多にかけてこなかったし、たまにかけてきたと思えば必要最低限の言葉だけ。あの子を思いやる言葉も私を思いやる言葉もなくて。

 一度もあの子の頭を撫でなかった──触れることなど一度もなかった。いや、ああ、そうだ。ただ一度、髪留めを与えた時だけは、あの子に。


「時雨、ウイを殺して魂をそこに」


 冗談だろ。今までお前が何をしたって言うんだよ。好きなものも知らないだろ。嫌いなものも知らないだろ。誕生日だってどうせ覚えてないんだろ。おめでとうもプレゼントもただの一度もよこさなかったじゃないか。入学式も運動会も音楽会も卒業式も、全部全部、ただの一度も観に来なかったじゃないか。葬式だって、何しに来たんだよ。お前、少しも泣かなかったじゃないか。


「そうすれば破壊装置も落ち着くはずです。アレはあくまでも、その人形に入っている厄災に反応しているだけのはずですから」


 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。お前が守りたいのは他の世界なんだろ。この世界はもう、どうだっていいんだろ。なのに、なんで。


「──ウイを殺しなさい、時雨!」


 お祖母様のそんな声、初めて聞いた。

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