無月の夜ー4
明かりとほのかな暖かさが私を迎え入れる。帰宅の挨拶に返事はなく、けれど居間からは小さな物音が聞こえた。
待ってくれている。そう信じて足を進めれば予想通り、ソファには彼女の姿があった。私が入ってきたことに気がつくと、彼女は勢いよく立ち上がる。真っ直ぐに目の前まで歩いてくると、その頭が勢いよく下げられた。
「ちょっ」
「その、ごめんなさい。色々、嫌なことを言ってしまって」
「い、いやいや待て、待て! お前が謝る必要はないだろう」
でも、と。硝子玉の瞳が歪んでいた。
「でも、傷つけたことに違いはないでしょう。それも、わざと」
「……わざとだとしても、お前は必要なことを言っただけじゃないのか。私に言うべきだと思ったから言った。違うか?」
「それ、は」
「だろ。だからお前が謝る必要なんて何処にもない。謝らなきゃいけないのは私の方だ。……すまなかった」
頭を下げあう私たちを置いて、台所はからはかちゃかちゃと物音がし始めていた。ご飯温めますねー、なんて、呑気な声と共に。それがなんだかおかしくて思わず笑みがこぼれる。目の前の彼女も同じだったんだろう。視線を向けてみれば、彼女の唇もわずかに緩んでいた。
「座って待っていようか」
「……ええ」
こうして彼女がテーブルにつくのはあまりないことだった。食事の時はいつもソファでテレビを見ていたから。そうだ、と思い出してビニール袋をテーブルに置く。中から取り出したチョコレート菓子を差し出してみれば、彼女はわずかに首を傾げた。
「いや、その、食べないかなと思って。食べる機能、本当はあるんじゃないか?」
あのババアのことだ。この身体はかなり人間に寄せて作られている。その程度の機能、付けていてもおかしくはない。……あの子は食べることが好きだったし。
けれど目の前の少女はきっぱりと首を横に振った。少しだけ、悲しげな目をして。
「あるにはあるけれど、それは食べられない。だってそれ、初のために買ったものでしょう。私じゃなくて、ちゃんと初にあげるべきよ」
「……天音先生からのプレゼントでも、か?」
「なら尚更でしょう。それが欲しいのは私じゃなくて初だから」
それで、本当に心から理解できた。理解することを選べた。この少女はあの子じゃない。ウイはあの子じゃないのだと。そうしてウイはもう、あの子として扱われることを望んでなどいないのだと。
「……はは、そうだな」
あの子なら、間違いなくこの菓子を受け取る。躊躇いながらも、笑みを噛み殺して受け取るんだ。あの女からだと知ったなら、絶対にそうする。
「ちょっと、和室に行ってくるよ」
「ええ。いってらっしゃい」
暖かな居間を出て廊下へ。玄関のすぐ横にある扉を開けば、そこはひどく冷え切っていた。久しぶりに足を踏み入れた和室は最後に見た時と変わらぬ暗さのまま。壁際のスイッチを押す。白い光の下で、あの子の写真が目に入った。中学二年生のクラス写真から抜き出された、その日のままのあの子が。
「っ」
それを直視することができなくてわずかに目を逸らした。逸らしたままで、チョコレート菓子を供える。私は、やっぱり、まだ。
「しーぐれちゃん」
振り返る。和室の出入り口、中を覗き込む月の姿があった。そういえばこの部屋を見せるのは初めてだ。興味があるのだろう、彼女はキョロキョロと中を見渡すと、そろりと足を踏み入れた。その瞳が、焦茶色の小さな仏壇へと向けられる。
「……それが」
「ああ」
そっと、月は私の隣に腰を下ろした。瞼を閉じ、手を合わせるその姿に滲むのは神聖さ。静かで美しくて、柔らかな光──名前の通り、月そのもの。
「…………」
そこに懐かしさを覚えてしまうのは事実を知ってしまったからなのだろうか。知らなければ、こんなこと思わずに済んだのだろうか。
『破壊装置の魂を奪い、あの人形に入れなさい。それだけ。たったそれだけで、あなたの望みは叶う』
目の奥が熱い。頭がぐらぐらする。心臓は今にも胸を突き破りそうだ。
『あなたは日常を取り戻せる』
それは、事実。あのババアは嘘をつかない。ついたことがない、ただの一度も。だからその言葉通り、月から魂を奪いウイの身体に入れることができれば──私は、取り戻せる。
そっと瞼が開かれる。琥珀の瞳はぼんやりとした様子で写真立ての中の少女を見つめていた。
あの子を、日常を、何より手放したくなかった幸福を、取り戻せる。
「む、どうしたんですか、時雨ちゃん」
だがこの少女はどうなる。月というこの少女はどうなるんだ。
「時雨ちゃん?」
気にする必要などない。どうせ同じ存在だというのなら何も変わりはしない。けれど、それを言うなら今だって。何より私はあの子をカミサマなんかにはしないと誓ったはずで。
「時雨ちゃん!」
「っ、すまん、なんでもない」
今は、考えたくなかった。
首を振って思考を切り替えようと努める。月は怪訝な顔をしていたが、わずかに首を傾げて私から視線を移動させる。琥珀の瞳が見つめるのは仏壇に供えられたチョコレート菓子。どこか恨めしそうな色を空気に滲ませて。
「……おい。どうかしたのか」
「べっつにー。なんでもないです」
頬を膨らませて口を尖らせるあたり、なんでもないことはなさそうだった。月はふいと顔を逸らしてみせたが、その目はまだチョコレート菓子を見ている。
「もしかして、羨ましいのか? 天音先生にお菓子をもらったから」
ぐぬ、と。わずかに身体を揺らした月は、ぬぬぬ、と言葉を続ける。ばっと勢いよく私の方へと向けられた顔に浮かぶのはなんでもない、とは言えぬ表情。白い肌には少し桃色が滲んでいた。
それは。
「べ、別にそんなんじゃないです! ほんとにほんとに、そんなんじゃないんですからね!」
びしりと私を指さして月は慌てた様子で立ち上がる。そうしてもう用事はないとでも言いたげに出口へ。
その、姿は。
『べ、別に天音先生のことが好きとかないから! ほんとにほんとに、そんなんじゃないんだから!』
髪の毛が揺れる。肩より少し長い髪の毛が、一瞬、ショートヘアに変わる。白いシャツは紺色のセーラー服に。山吹色の短いスカートは膝丈のプリーツスカートに。変わる。変わる。変わって、しまう。
「う、い?」
黒い靴下に包まれた足が、その動きを止めた。そこに白が混じって、色がもうわからなくなる。くるりと振り返った彼女はこてんと不思議そうに首を傾げて、その顔さえもわからなくなりそうになって。
「っ、いや、なんでもない」
強く、瞼を閉じた。
それは超えてはいけない一線だ。
顔も見ずに彼女の横を通り過ぎて和室を出た。見られるわけがない。今その顔を見て、現実を知るのが怖かった。あの子と月は別人だ。別人だと、思っていたんじゃなかったのか。魂が同じ? 馬鹿馬鹿しい。そうだとしても、別の存在だ。違うんだよ。
「……クソ」
なのに、振り払えなかった。
琥珀に重なる焦茶色の幽霊を。
違う見た目の奥に存在する、同じ感情を。




