無月の夜ー3
開閉を繰り返す自動ドアから吐き出された温風すら恐ろしい。そっと出入り口から離れて、外壁に体を預ける。
──ああ、月の手を取ってしまったのは、死にたかったからだったのか。
今更、ようやく自分の考えを理解した。人ではない存在と暮らしていればいつか危険な目に遭うと思った。人ではない存在ならば、いつかは自分を殺してくれるかもしれないと期待したんだ。なんて無責任。私はあの少女に、勝手にそんな役目を押し付けようとしていたなんて。あの子と同じ魂を持つ少女に、そんなこと。
「はい、天宮先生」
いつの間に出てきたのだろう。とん、と肩に冷たい感触。目をやれば、天音先生がペットボトルのカフェオレを私に押し付けていた。彼女の手元にはビニール袋。なにが入っているのかまでは見えなかった。
「……ありがとう、ございます。けどなんで冷たいやつなんですか」
「えー? だって天宮先生、わたしに冷たいじゃないですか」
「それとこれとどういう関係が?」
じとりと睨みつけてやれば、だって、と満面の笑みを浮かべる。
「心身ともにとびきり冷たくしてもらって、早く冷たいのに飽きてもらいたいんですもの」
なんですか、それ。
こぼれた声は自分のものなのに、自分のものとは思えないほど弱々しかった。手にしたカフェオレはやっぱり冷たい。キャップを開けて口に運べば直に身体の内側を冷やしてくる。ああ、本当、寒くて仕方がない。
「天宮先生。ウイさんは、やっぱり神宮さんじゃないですよ」
「……やけにはっきりと言い切るじゃないですか。なにか、根拠でもあるんですか」
キャップをキツく閉めて問いかける。口元に浮かべられたのは柔らかな微笑み。その笑顔はいつか、廊下で見たものによく似ていた。あの子と二人、喋っていた廊下で。
「わたしの好きな神宮さんは、生き返ったら真っ先に天宮先生のことを叱ります。なに馬鹿なことしてるんだー、って。それで……ふふ、これはわたしの願望ね」
「────」
今、この女、好きって、言った? あの子が好きだと、確かにそう聞こえた気がする。言った気がする。いや、もちろん生徒としてに決まっている。決まっている、のだけれど。
「それにね、天宮先生。神宮さんだったらきっと、天宮先生のこと探して迎えにきてくれるはずです。何があっても、絶対に」
「なんで、そんな」
「わかりますよ。だってたくさん話してきたんですから。そのくらいわかります」
わかっていたい、と。声にはそんな言葉が滲んでいたような気がした。
「はい、これ」
がさりと擦れる音と共に差し出されたのはビニール袋。受け取って中を覗く。
「これ……」
そこにはあの子が好きだったチョコレート菓子が入れられていた。思わず顔を上げれば、天音先生の顔に浮かべられているのは歪な作り笑い。その笑顔の意味が、今は、ほんの少しだけわかる気がした。この人にとってもあの子は大切な相手だったんだろう。この人だって、乗り越えて前を向いているわけじゃなかったんだろう。
「早く帰ってあげてください。二人とも、いえ、三人とも、天宮先生の帰りを待っているはずですから」
それじゃあ、と天音先生は背を向ける。歩き出したところで、ふと、彼女は足を止めて振り返った。そこには、今度こそ。
「ちゃんとウイさんと神宮さんのこと、考えてあげてください。もちろん、神童さんのことも」
今度こそ、本物の笑顔があった。穏やかなくせに薄っぺらくて、そのくせ親しみを感じられる、気に入らない笑顔が。
「それじゃあまた明日。祝日ですけど、部活、ありますもんね」
ひらりと手が振られる。その姿が夜道に消えていくのを何をすることもなく見送った。ビニール袋の中を改めて覗く。そこに入れられたチョコレート菓子はやっぱりあの子の好きなもの。誰のために買ったものなのか、結局聞きそびれてしまった。
「そのお菓子、どうするんですか?」
「はっ!?」
声と気配は唐突に。袋の中を見ていたのは私だけではなかった。ゆっくりと、その瞳が私に向けられる。吐き出されたのは、もう、なんてため息混じりの声。
「月、なんで」
「なんでもなにもないでしょう。遅いから迎えにきてあげたんじゃないですか」
揺れる視界。その姿が一瞬あの子に重なって、でも、その幻は空気に溶けて消えてしまう。
月はちらと天音先生が立ち去った方に目を向けたが、すぐにくるりと背を向けてしまった。
「ほら、帰りますよ時雨ちゃん。ウイも、時雨ちゃんのこと心配してるんですから」
「……ああ」
その背に、やっぱりあの子が重なって見えてしまう。消えては重なり、また消えて。
私以外の誰にも見えぬ少女は軽い足取りで歩いていく。薄茶の長い髪の毛が風に揺れていた。水色のケープと山吹色のスカートは今日も鮮やかに。実体化していないのに、編み上げブーツが地面を蹴る音が鼓膜を震わせる。
違う。あの子とは違うはずなのに。なのに。
『神宮さんだったらきっと、天宮先生のこと探して迎えにきてくれるはずです。何があっても、絶対に』
そんな余計な言葉のせいで振り払えなくなってしまう。だからこそ、問いかけてしまった。
「なあ。ウイはやっぱり、あの子とは違うのか。その、魂、とか」
うーんと悩むような声を出す月はわずかに首を傾げている。彼女は歩く速度を緩めて、私の隣に並んだ。
「どう、なんでしょう。魂が違うから別人だって考えるのか、記憶が同じだから同一人物だと考えるのか。それは時雨ちゃん次第なんじゃないですかね?」
「……おい。人形だのなんだの言っておきながら丸投げか」
「そういうんじゃないですよ。今のはあくまでも、人間視点の話をしただけです。事実だけを口にするのなら、やっぱり別人ですよ。だってアレの中身は厄災で、人の魂ではない。……まあ、私には魂の色形なんかまでは見えないんですけど」
足が止まる。時雨ちゃん? と不思議そうに月が振り向いた。
「見えないのに、違うってわかるのか。あの子じゃないって、わかるのか」
答えに何を望んでいるのか、自分でもわからない。それでも問いかけずにはいられなかった。
月はまた、こてんと首を傾げて。
「まあ、人かどうかくらいは流石に。本人じゃない、って言い切れるのはそこが大きいです。中身は人の魂とは全然違いますからね。けどそれはそれとして、違うモノだなって、なんとなく。アレは初の真似をしてるだけで、初じゃないなー、とも思います」
そう口にして、月は歩き出す。アパートはもうすぐそこに。
──ウイは、あの子じゃない。
ようやく真実を飲み込めるような気がした。それは、きっと。
「時雨ちゃーん、はーやーくー」
さっさと階段を上がった月が、私を見下ろしている。琥珀の瞳にもその顔立ちにも、何処にもあの子の面影はない。
それでも、きっと。
「今、行くよ」
きっとあの子を知る人が、あの子を覚えていないあの子自身が、否定してくれたから。
なら、どうするべきなのか。どう接して、その後は──答えはまだ出せないまま。それでも探し続けたままで。
「……ただいま」
玄関を、開けた。




