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無月の夜ー2

「は、は、っ、う、ぐ──う、ううう、っ、あ──」


 わからない。わからない。少しもわからないんだ。

 あの子と同じ姿と声で、あの子の記憶を持っている人形──その中身は別のモノ。魂が違う。核が違う。それでもあの子だって思っていたかった。

 あの子と違う姿と声で、あの子の記憶を持っていないカミサマ──その中身は同じもの。魂は同一。核が、同じ。それでもあの子と違うんだって思っていたいのに。

 それなら、それなら、それなら。


「し、たら、っ」


 それなら私は、誰とどう向き合えばいいんだよ。同じだと思いたいのに違うと言われて、違うと思いたいのに同じに思えて、それなら、私は、どうしたら。

 上着に入れたままのナイフが足にぶつかり続けていた。ここに答えがあるぞと、その存在を主張するように。


「どうしろって、言うんだよ──」


 月の無い夜だった。聞こえるのは自分が吐き出す息の音と夜道を駆ける足音だけ。何処に向かえばいいのかわからぬままでそれでも走り続ける。そうしていればこのまま何処かに消えてしまえるんじゃないか。でも、その期待は打ち砕かれる。


「あ──」


 街灯の下に立つ女と目が合った。秋の憂いを帯びた湖のような瞳が私を見た。まあ、なんて。わざとらしく見開かれた目が。


「天宮先生、どうされたんですか」


 止まる必要はない。無視して通り過ぎればいい。でも足が止まる。彼女の前で立ち止まってしまう。それは、多分。


「ランニングですか? こんな真冬の夜に……もしかして、バスケ部の子達へのお手本のつもりだったりして。だとしたら、よくありませんよ。こんな寒空の下、しかも夜に、一人で」

「……天音先生だって、一人じゃないですか」


 多分、この女を。


「あら、わたしはちゃんと防犯ブザーを持っていますから。電話だって忘れず持っていますし」


 この女を信じてしまっているからなんだろう。あの子を知っていると。あの子をちゃんと見ていたのだと。


「寒いのにいつもの上着だけなんて。もう少し暖かくしておかないと、神宮さんに怒られちゃいますよ」

「…………」

「あら、また無視のターンですか。ま、いいですけど。それより天宮先生、わたし、これからコンビニに行くつもりだったんです。よかったら天宮先生も行きませんか?」


 喉元まで言葉が出かかって、でも、それは声にならなかった。滲む視界を隠すように俯けば、それが頷いたように見えたんだろう。天音先生はよかった、と呟いて歩き出す。仕方なく、ついていくことにした。他に行く当ても、今はなかったから。


「ウイさんと神童さんは、元気にしてますか?」

「……ええ、まあ」

「そう。ならよかった。またお話しする機会があれば嬉しいんですけど」


 ちらと視線を向けられた気配に、それでも顔が上げられない。天音先生は責める言葉を口にすることもなく、また、前を向いたようだった。


「ね、神宮さんと神童さんって、親戚でしたよね?」


 ああ、そういえば、そういうことにしていたんだったか。そうですよと頷けば、天音先生のまとう雰囲気がほんの少し、先ほどまでとは違うものに変わった気がした。


「だから、かしらね」


 その変化が気になって、そっと顔を上げる。前を歩く彼女の表情はわからない。


「神童さんって、神宮さんに似てる気がするんです」


 だけどその声音には覚えがあった。それはいつか、あの子と話をしていた時のような柔らかさ。


「話し方も見た目も似ていないのにね。……似ていないのに、ウイさんよりも似てるって思ってしまうんです」


 少し長めの後ろ髪が風に揺れていた。その背に滲む感情の色はやっぱりわからなくて。


「ウイは」


 でも、知りたかった。教えてほしかった。


「ウイは、あの子じゃないんです。本当は」


 足が止まる。紺色のコートが膨らんで、彼女が振り向いた。小さく揺れ動いた瞳に滲んだのは哀しみに似た色。けれど。


「なんだ、ちゃんとわかってたんですか」


 その声は、どこか嬉しそうで。


「──わかってたんですか、って」


 くすりと笑みをこぼして、天音先生はまた歩き出す。さっきまでよりも軽い足取りで。


「天宮先生、本当にウイさんのことを神宮さんだと思ってるんだとばかり、あ、わたしはちゃあんとわかってましたよ。ウイさんと神宮さんが違う人だってことくらい」

「……私だって、でも」


 それでもわかりたくなかった。今もまだ、わかりたくない。


「わかってたって、あの子だと思いたいんです。そう思っていたいんです、多分。だって、そう思っていないと、私は」


 信号は赤。車が数台、通り過ぎていく。


「私は、生きていられなくなる」


 あの悪夢が始まった日から、ずっと、生きることを遠ざけようとしていた。自分で自分を殺す選択も取れぬまま、それでも死に近づきたかった。

 だからこそ、月が現れた時、本当は少し嬉しかったんだ。人ではないモノがやって来て、自分だけがソレを見ることができて、触れることができて。それを、私は自分が死に近づいたからだと思ってしまった。そんな期待は、雪のように儚いものだったけれど。

 信号はまだ、変わらない。


「あら、ここ、夜間は押しボタンだったの」


 ぽつりと呟いて、天音先生は信号機に付いていたボタンを押す。行き交う車がようやくその動きを止めた。


「天宮先生」


 信号は青へ。天音先生は躊躇いもなくさっさと歩き出してしまう。


「今、何が飲みたい気分ですか?」


 真白な光が周囲を照らしていた。コンビニエンスストアはほどほどに繁盛しているらしい。狭い駐車場にはそれなりに車が停まっていた。


「え、ええと」

「ふふ、なーんて、わかりますよ。カフェオレでしょう」

「は、なんで」


 この人の前でカフェオレを飲んだ記憶などない。いや、そもそも学校でカフェオレなど飲んだ記憶はなかった。給食は牛乳だし、それ以外の時は基本、ブラックしか。

 困惑が顔に現れていたんだろう。天音先生は楽しげに肩を揺らしている。


「神宮さんが教えてくれたことがあって。お姉ちゃんはカッコつけだから外ではブラック飲んでるけど、家では甘ったるいカフェオレばっかりなんですよ。特に、考え事してる時は。って」


 紺色のコートは自動ドアの向こうへ。その後を追いかけられぬまま、寒空の下に立ち尽くす。多分、寒さの中に居たかったんだろう。暖かな場所に足を踏み入れる勇気が今の私にはなかった。

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