見知らぬ月明かりー2
「は、あ!?」
反応は無意識。地面を蹴った感覚すら遠く。降ってくるのは何者か。落ちてくるその人物はぎゃあぎゃあと何かを喚いている。その声で、それが少女なのだと気がついた。気がついて、意識が身体に追いついた。
「こんの、突然放り出すとか聞いてないんですけどぉ!? 冗談ですよね、え、本当にこんな、嘘でしょ。えっ、ちょ、まっ」
「クソ、ま、に、あ」
身体に魔力を回す。どれだけの高さから落ちてきているのか知らないが、まともに受ければ間違いなく怪我をする。それだけのことを考える頭はあった。
「もーっ! 師匠の馬鹿、ヒトデナシ、ろくでなし、今度会ったら絶対一発殴ってやるんですから──っ!」
「え────!」
あったくせに、彼女を受け止めるまで気がつかなかった。気がついていたら、何かが変わっていたのだろうか。
わからない。ただ一つ確かなのは、伸ばした腕に重みと衝撃が伝わってきたことだけで。
「ぐ、っ、セーフ……っと」
地面が一瞬近づきかけて、すぐに身体を立て直した。あの家を出てからも鍛錬を続けてきた成果をようやく得られた気がする。そこには確かに喜びがあった。本来の目的が叶わなかった現実を、一瞬でも忘れてしまうほどに。
「っ、いや、それより。おい、大丈夫、か──」
止まる。言葉が。止まった。心臓が。
だって気がついたんだ、人の温度がないことに。わかったんだ、その瞳が人のものじゃないって。何より、見えたんだ。その身体から滲み出す、あり得ないほどの魔力が。
琥珀の瞳がゆっくりとこちらに向けられる。まずい。何がまずいかわからないが、ともかくこの状況は絶対にまずい。
「あの」
その声が聞こえていないふりをして少女を放り投げた。ぽいと放り投げられた彼女はえ、と驚きの声を漏らす。それさえも無視して背を向けた。
「あっ、ぶな。ちょっと、いきなり何するんですか!」
人じゃないものに関わるつもりなんてない。あの家を出た日、決めたじゃないか。これからはただの人間として生きると。もう不可思議なものには首を突っ込まないと……それならなんで、私は、魔術を手放さないんだ。もう理由なんて何処にもないはずなのに。
「……っ」
逃げたい。逃げよう。逃げれば全部、考えなくてよくなる。でも走り出すより先に、掴まれた。
「ちょっと、待ってくださいってば」
振り向きたく、ない。なら無視して振り払って、さっさと駆け出してしまえばいい。わかっている。簡単なことだ。簡単なはずなのに──できなかった。なんで、どうして、わからない。
もしかしたらその感覚に、ほんの少し、覚えがあったからなのか。
恐る恐る、振り返る。確かめるのが怖いだなんて、馬鹿な気持ちを抑え込んで。
少女が、私の上着を掴んでいた。焦茶色の編み上げブーツに黒い靴下。山吹色のスカートは膝よりも少し上。それだけ見れば普通の女の子。だが問題はそれ以外。白いシャツの上には水色のケープ、それを留めるようにスカートと同じ色のリボンが胸元に。薄茶の髪の毛は二段になっており、上段は肩までのミディアムヘア。下段はというと、二つに分けて金具で結ばれており、こちらは膝裏あたりまで伸びている。
そう、この子は普通の少女じゃない。それは見た目も、滲み出す魔力からも明らか。だからその手を振り払おうとして、その前に彼女が顔を上げた。
「────」
上げた瞬間に、見えぬ何かに心の奥底を掴まれた。それは、恋ではなく。
「あの」
その目と、目が合う。長いまつ毛に縁取られた琥珀の瞳は、ついさっき強く輝いた満月によく似ていた。右目の下には十字の赤い傷。左目の下には小さな泣きぼくろが一つ。整った顔立ちは、日本人であるとわかるのに、西洋の人形じみた美しさを感じさせる。
桃色の唇が、小さく息を吸った。
「天宮時雨さん、ですよね」
静かに紡がれた言葉。けれど不思議と、その声は煌めきに満ちていた。
「な、んで、名前」
知ってるんだ、と言い切る前に、少女は。
「────」
笑った。笑っていた。その笑みに抱く感情は、やっぱり恋なんかじゃなくて。
「え、あ」
正直に肯定するべきじゃない。大人しく話を訊く必要だってない。なのに身体は動き出さず、胸を貫く感情も知らず。この気持ちを言い表す言葉なんて、見つけられなくて。
私の上着から手を離して、少女は小さく息を吐く。とん、と。一歩が踏み込まれた。ふわりと香るのは金木犀に似た香り。ずいと私に近づいた彼女が浮かべるのはどこか人形じみた笑み。その笑顔が、何故か。
「初めまして。私の名前は月、神童月です」
何故か、見知った少女の笑顔に重なる。
その姿は、見知らぬ少女でしかないのに。
「ふっふっふ。聞いて驚かないでください。私は」
知らない。
「破壊を司る、新米のカミサマなのです!」
カミサマ。
カミサマの、子。
「は、え?」
わからなくなる。
ぐいと腕が引っ張られる。月と名乗った少女は笑みを浮かべたまま。笑う彼女はやっぱりよく知るあの子のよう。顔も声も、喋り方も違うのに。
わからなくなってしまう。知っているような気がして。知っているはずだと思ってしまって。
「まあとりあえず、夜道は危ないですし、さっさと時雨ちゃんのお家に行きましょうか」
思考は固まったまま。彼女は何一つ理解できない私を置いて歩き出す。見知った力加減を私に与えながら。でも、すぐに足を止めて振り返った。
「ところで、時雨ちゃんのお家って何処ですか?」
こてん、と、あの子のように、首を傾げて。