無月の夜ー1
「時雨ちゃん、時雨ちゃんってば」
とん、と。背中を軽く叩かれて、ようやく自分が呼ばれていることに気がついた。私を覗き込む琥珀の瞳に私自身が映り込んでいる。その表情までは読み取れなかったけれど。
「お家、着きましたよ。玄関、早く開けてください」
「あ、ああ、悪い」
もう、と。呆れたような声にもう一度、すまないと言葉を返す。鍵を開けて、ドアノブを握りしめて、それでもまだ、中に入る勇気がどうしても持てなかった。
「……時雨ちゃん、どうしたんですか。昨日帰ってきてからずっと様子がおかしいです」
「……なんでもないよ」
「なんでもないこと、って、ちょっと」
開いた扉の向こう、廊下は真っ暗。今朝も眠ったままだったあの少女は今もまだ眠っているのだろうか──そう思いかけて、居間から漏れる明かりに気がついた。
「──っ、初!」
「あっ、ちょっと、ドア! ちゃんと閉めてくださいよ!」
その名を呼んだ。もうとっくに明らかになってしまった事実を拒むように。だけど応える声はなく。
踏み入れた居間は明るく、けれど温もりはなく。エアコンは切られたまま。ダイニングテーブルの上に料理はない。台所にも調理をした形跡はなくて。その光景は、まるで彼女がここに来る前へと戻ってしまったかのよう。でも、居た。
「──ただいま、初」
ソファに座った彼女は私に顔を向けない。ただぼんやりと、真っ黒なテレビの画面を見つめている。
「……まだ、具合が悪いのか? どこか痛むか。息は、苦しくないか。もし少しでもおかしなところがあるなら教えてくれ。すぐ、ばあさんのところに──」
言葉を遮ったのは大きなため息。立ち上がった初はずんずんとこちらにやってくる。それはあの子が怒っている時の動きによく似ていた。だけど、向けられたその瞳は。
「う、い?」
その目は、あの子のものじゃない。それがわからないほど、私は、愚か者じゃ、ない。
「天宮時雨」
ピシャリと、肩に触れようとした手が跳ね除けられる。強い声に。温度のない手に。冷たい視線に。
「私はもう、あなたのお世話はしないことにしたから」
「は、なに、いって」
「聞こえなかった? 自分のことくらい自分でしなさいと言ったのよ。だって」
冷え切った硝子玉の瞳が私を貫く。目を。心臓を。うすら笑いを浮かべた顔はあの子のものじゃない。わかっている。なのにあの子と重ねてしまう。
「あなたの世話をしてくれるあの子はもう居ない。神宮初はもう、ここには居ないのだから」
その顔で、そんなこと、言わないでくれ。
「これ以上人形に縋るのはよしなさい。みっともない。私は神宮初じゃない。昨日、よく思い知ったでしょう?」
そんなこと、言うな。その顔で、あの子と同じ顔で、あの子と違う表情で、そんな、こと。
ふん、と。不機嫌そうに鼻を鳴らして彼女は私に背を向ける。
「ま、う」
伸ばした手は届かず。彼女はあの子の部屋へと姿を消してしまった。扉の閉める音もさせずに。
あの子とは違う喋り方。あの子とは違う呼び方。あの子とは違う表情。そうして、あの子とは違う扉の閉め方──違う。違うのに、その見た目があの子と同じせいだろう。
「……どうして」
あの子に拒絶されたのだと、嘲笑うような声が脳を揺さぶっていた。そんな言葉を吐く人間はここには居ないというのに。
拒みたかった。この現実を。これはただの悪夢なんだって。悪夢が続いているだけなんだって。逃げるように顔を覆う。でも逃げ切れない。両手の隙間、そこに、琥珀の瞳が在った。心配そうに私を覗き込む月の瞳が。それさえも悪夢の一部でしかない。だから目を閉じる。もう何も見たくなくて。
本当は、わかっているのに。
「晩御飯、私が作りますね」
本当は、わかっているんだ。
「時雨ちゃん、どう頑張ったって料理できないんですから」
仕方なさげな声と共に足音が離れていく。
その行動の方がずっと、あの子らしかった。
あっという間に用意されたのは二人分の食事。それを囲むのは私と月だけ。あの少女は食事を必要としていないし、これまで一度も何かを食べようとはしなかった。だから彼女を呼びに行く必要などない。わかっているのに、それでも足はあの子の部屋へと向いていた。
「初、晩御飯の時間だぞ」
呼びかけに答えはなく。扉を叩いても物音一つしない。それはあの日から始まった現実を私に思い出させる。返事がないのも物音がしないのも当然のことだと。それでも拒むようにドアノブに手をかけた。
「入るぞ、初」
そこに、彼女が居ると信じて。
暗闇に支配された室内。電気くらいつけなさい、なんて壁のスイッチに手を触れる。だけど明かりを灯すより先に彼女が口を開いた。
「入っていいなんて言っていないはずだけれど」
唇を噛み締めたのは無意識。でも、それでよかったのかもしれない。そうしていなければ、もうこの現実に折れてしまいそうだったから。
「──どうしたんだよ、初。さっきからおかしいぞ」
ぎし、と。軋む音が虚しく響いた。ベッドから立ち上がった少女の顔が居間から入り込む明かりに照らされる。その顔はやっぱりあの子のもので、だから、今が夢なのか現実なのか、わからなくなる。
「やっぱり具合でも悪いのか? ああ、それとも反抗期ってやつか。でもそれならそうと言ってくれよな。心配、するだろうが」
表情は変わらず。まるで人形のよう。あの子のそんな顔、もう、何年も見ていなかったのに。
「なあ、う──」
「おかしいのはあなたの方よ、天宮時雨」
前髪を握りしめた。そうしていなければここに立ち続けることができないと思ったから。
「何度言えばわかるのかしらね。ここに居るのは神宮初じゃない」
唇を噛み締めた。その痛みがなければ胸の痛みに耐えられないと思ったから。
「私は彼女を模して作り出された人形。中身は厄災で、あの子の魂なんて入っていない」
目を瞑りたかった。そうすればこの悪夢から逃れられると思いたかったから。
「所詮私は偽物。本物はもう──」
「っ、黙れよ!」
響いた声が自分のものだなんて思えなかった。一瞬、彼女の顔が目に入る。だがすぐに視界から消えた。消した。代わりに入り込んできたのは薄緑のカーペットが敷かれた床。その上を黒い靴下に包まれた足がわずかに動く。彼女は、何も言わない。
「ど、どうしたんですか、時雨ちゃん」
ぱたぱたと足音を立てて月がやってくる。その顔を見たくなかった。なのに、見てしまった。
「────」
あの子とは違う顔。あの子と違う喋り方。でもその魂はあの子と同じもの。
唇が動き出す。その名を呼ぼうと。だけど声が出ない。滲む視界の中、カミサマの少女がこてんと首を傾げた。あの子と同じように。あの子とは違うと、そう、思っているはずなのに。
「天宮時雨」
冷たい声に振り返る。あの子と同じ名前を持ちながら、あの子とは違う存在だと言い張る人形の少女と目が合う。彼女は首を傾げない。あの子と違う目をして私を見つめている。あの子と同じだと、そう思いたいのに。
だから、もう、わからなかった。
「ちょっ、時雨ちゃん!?」
あの子と違う声が、あの子と違う呼び方で私を呼んだ。身体はそれを無視して家を飛び出してしまう。逃げるために。何から。この悪夢から。この現実から。




