不可逆の満ち欠けー13
それでもう、話すことは無くなったんだろう。線香の香りだけを残して、祖母は部屋を出ていく。足音は立ち止まることなく遠ざかっていく。力の入らない体は畳の上へと崩れ落ちた。慰めてくれる者はおらず、心配してくれる存在なんて居なくて。
「なんで」
残されたのは冷たい真白なナイフと無慈悲な選択肢だけ。このまま過ごして別れを迎えることになるか。それとも月の魂を奪い、あの子との日常を本当の意味で取り戻すのか。
「……んだよ、それ」
どちらを選んでも誰かが死ぬ。
このまま過ごせば少なくとも月とは一緒に居られるかもしれない。だがウイはどうなる。あの子のことだって、取り戻せないままじゃないか。
「殺せ、って」
月の魂を奪えば月が死ぬ。ウイも死ぬ。だがあの子は取り戻せる。あの子だけは、取り戻すことができる。
なら迷う必要はない。
「必要、ないわけないだろうが──!」
握り締めたナイフを持ち上げる。そのまま畳に叩きつけてやるつもりだった。なのに。なのに、なんで。
「クソ、クソ、クソっ」
ナイフを手放せない。誰かを殺すなんて選択肢、捨てたいはずなのに。どうしたって手のひらからナイフが外れてくれない。だから、仕方ないんだ。そう言い訳をして、上着のポケットへと仕舞い込んだ。その手を、ナイフと共に。これは仕方のないことなんだと自分に言い聞かせて。
ぼんやりとした頭で屋敷を出る。雨はまだ止まず、冬の寒さと合わさったそれはやっぱり海の中に居るみたいだった。息を吸い込むたび溺れそうになる。足を踏み出すたび、鼓膜を振るせる水音に怯える。それでも歩いて、坂を下って、でも、そこで足が止まった。もう歩きたくなかったんだ。足を踏み出す勇気が、なくて。
「殺せるわけ、ないだろ」
だってウイは生きてるんだぞ。生きた人形だって、確かにそう言ったじゃないか。あの子の記憶を真似ているだけ、そうだとしても、それは彼女が生きていないことの証明にはならない。殺せば取り戻せる。あの子を。あの日常を。だが殺せば死ぬ。ウイも。きっと、この数日間の意味も。
止まった足は未だ動かぬまま。身体の震えはひどくなるばかり。いっそこのまま消えてしまえたのなら。
だけど。
「殺せる、わけ」
だけど、待っていると言われた。
帰ってこいと、笑顔で言われたんだ。
足が動く。二人が待つアパートへと帰るために。足を動かす。そのたびに事実が脳を揺さぶる。ウイはあの子じゃない。あの子を取り戻せばウイは死ぬ。取り戻さずともいずれは死ぬんだ。そうして。
「殺す、なんて」
月の魂があの子のものだとしても、月とあの子は別の存在じゃないか。たとえ同じ魂を持っているんだとしても、それでも私は二人を同じ存在だなんて思えない。思いたくない。なら、どうなる。あの子を取り戻せば月は死ぬ。少なくとも私にとってはそれが事実。月を殺せばあの子を取り戻せる。祖母は確かにそう口にした、ならばそれは揺らがぬ事実。取り戻せる。日常を。取り戻せる。私の幸せを。だけど。
「殺したく、ないんだよ──」
だけど、私は。
二階建てのアパートを見上げる。余計な思考全てを抱えたため息が、静かすぎる空気を震わせた。今はもう、何も考えたくない。たとえ答えが出せずとも、たとえ答えを出さなくちゃいけないのだとしても、今は──それを放棄して、玄関を開けた。




